PARADISE(楽園)からDAWN(夜明け)、そしてNOON(正午)へ
―金光さんがこの業界に関わり始めたときのお話から聞かせてもらえますか?
(金光正年さん 以下K) 80年代後半くらいに、友達同士でPARADISEというクラブを立ち上げようっていう話があって。ちょうど俺が25歳位の時かな。当時、大阪にはディスコしかなかってん。東京にはすでにクラブ的なものがあって、それはピテカントロプス
というところやってんけど、大阪には全くなくって。ディスコやけどクラブ的っていうところもパームス くらい。FLATt とかあったところ、大半はなんかキャピキャピして、ナンパするところ。ゴージャスな感じやな。でも世の中はそうじゃなくって。アメリカではヒップホップが成熟してきてる。一方、日本では社交場的なディスコがほとんど。それで友達らと皆で「めちゃダサいよな、俺らでイケてる場所つくろうや」ってなって。西成の北津守にウェアハウス的な倉庫があって、そこの2階で雨宮志龍クン が天国喫茶っていうパラダイス喫茶っていうのをやっててん。で、ちょうどそこの1階の場所が余ってたから借りて「俺らでクラブやろうや!」って言うて。ヒップホップオンリーのクラブを皆でトンカンってやって電線引いて、クーラー設置して…そんでつくってん(笑)―今のNOONとか、CLUB DAWNもいわゆるセルフメイド、ご自身たちで立ち上げられたと聞いています。
K そうそう。グラフティアートとかも自分らで描いて。他にも仲間内でブレイクダンスする奴、DJする奴、で、俺が運営する人間。そういうのんでやったんがきっかけ。もう時代やってんな、完全に。クラブが必要な時代に来ててそれを大阪で最初にやったのが俺ら。そういうのんがきっかけでPARADISEの営業をやりだしてんけど、その後しばらくお金も無いから何にもできひんかった。でも、当時もの凄いPARADISEが話題になったから、今度DYNAMITE
っていうクラブができたときに、友達から「そこを仕切る人間がいてない」、「金光っちゃん仕切ってくれ」って言われて。で、結局俺そこ行ってん。ほんだらもう週末でも1000人位入ってたと思うんやけど、役職としてはジェネラルマネージャー内実は運営プラス用心棒的な(笑)土曜日の晩になると、狼藉者をちぎっては投げ、ちぎっては投げしてたわけ(笑)そんなこんな言ってるうちにClub Antenna の話が来てん。―僕がクラブへ行き始めたのはAntennaからでしたね。
K Antennaには1年くらい関わってんけどちょうどその時バブルが弾けたときやって。結局は債権問題で1年で閉店。で、そのあと間を置いてイベントばっかりやっててん。そのAntennaの時に作った会社がADHIP
っていう会社で、今は、Japan Dance Delight とかっていうダンスコンテストをやってる…―南船場に事務所がありましたもんね。
K そうそう。で、それをずっとやっててんけど、どうしてもクラブをやりたいわと。それまでは友人と一緒に作っていってたわけ。でも、俺の思い描いてるもんと、友達らが思い描いてるもんとがぶつかるたびに何かちょっとちゃうな、自分がリーダーシップを取って理想とするクラブをやってみたいなって思って。それで、スポンサーを探してやったんが、CLUB DAWN。
―それまでの経験を活かして。
K いや、そん時には一回白紙にしようと。今までの流れをぜんぶ白紙にして1から積み上げていこうと。例えば、お掃除のマニュアルとかも全部。そのマニュアルも、当時のスタッフ達が作っていってん。スタッフってやらされるもんに対しては抵抗するけど、自分らで作ったもんに対しては率先してやっていく。そういうのを積み重ねていったわけ。また、今まではあんまりDJというのを起用せえへんかってんけど、そん時は俺以外の運営スタッフは3人ともDJ。何かこうDJの視点で店作りやりたいなというのがあってん。
―なるほど。他に当時、DAWNでこだわった点、印象深いエピソードなどはありますか?
K あとはフライヤーかな。自分らでDTPっていうのを既にやっててん。当時のデザイン事務所とかがまだ写植とかそんなんやってる時代に俺らはもうパソコンでフライヤーを作ってて。あと、当時のフライヤーってほとんどがDJ名とかの文字だけやってんな。そこで、俺ちょっとした閃きがあってん。ちょうど俺が20歳位の時に影響されたプロモーションビデオがあんねんけど、それがアーティストが歌ってる内容と映像がぜんぜんリンクせえへん。んで、その意図をアーティストがインタビューで聞かれた時に「音楽と歌で表現してるものを何でわざわざくどく、もう1回映像でリンクせなあかんねん。別に違うものをやってもいいやんけ」って言ってて。音楽と映像、違うものをリンクさせて、合わせて、2つ混ぜたらまた新しい表現が生まれるっていう。それがめっちゃ心に残ってて、思い出してん。ROCKのフライヤーって言ったら、まあなんか一般的にドクロとかスタッズ、鋲とかちょっといかついイメージがあんねんな。こう男っぽい、男臭い。何かちゃうなあと思って。違う、じつはロックってファッショナブルで、もっとおしゃれな音楽やんっていうようなイメージ作りのために、女性をモチーフにしたちょっとファッション的な要素を取り入れたフライヤーを作ってみた。本当はあかんかもしれへんけどファッション誌の切り抜きみたいな写真を捜してきて、それを加工して、フライヤーデザインにして。
―サンプリングですね。
K ほんならみるみる内に客が増えてくる。隔週で土曜日にやっててんけど、隔週ごとに客が増えていく。ほんでフライヤーを持って帰りはんねん。2枚、3枚と。で、お客さんに何すんねんって聞いたら「家に貼ってるんです。」って。「これコレクションするから」って。
―めっちゃブレイクしてた記憶が。
K こっちも戸惑うくらい。何かがこう、成し得たときの感じを生で見れたっていうのがある。こんな感じになんねんやって。それが、CLUB DAWN時代に至るまでの過程。あとDAWNをオープンしたときに決めてたことがあって。それは必ず10年やろうと思っててん。この店は何があっても10年絶対やろう。どんなトラブルがあっても。なんでかっていうたら、ある雑誌のインタビューで「クラブの寿命は5年位ですね。5年経ったら、また新しいクラブ、また新しいクラブ」っていうことが書いてあって。それは寂しいやろうって。ライブハウスとかはもうその時すでに20年とか30年とかやってるところがあるわけやんか。チキンジョージ
とか。で、そこから生まれたアーティストとか、そういうのが歴史としてあるけど、たった5年の寿命やったらそんなんでけへんやん。その定説を覆すために10年やりたい。で、俺らがここでやる10年の中で、育てたアーティストが大きくなっていったりとかそういう文化になっていってほしいな、と。クラブというものが。―CLUB DAWNでいうとRap Noodle
みたいな。K まさにそう。
―あのイベントのなかで若いラッパー、飛び入りラッパーを募集してて、それで僕もラップをやり始めましたもん。
K で、そういうのんがあって俺らはそういうクラブを目指そうって。でもちょうど10年くらい経った時に、なんかCLUB DAWN色っていうのができてしまってて。良くも悪くも。いくら新しいことをやっても、DAWNっていうカラーに染まってしまって。それで、俺は10年経ったらスパーンと止めて、そん時、俺42やってんけど「もう俺クラブはええわ」と思ってん。後は若い世代の奴らがやったら良いんちゃうって。でも、DAWNのスタッフに「僕らやっぱりクラブ続けて行きたいです」って頼まれたから、そこで考えて。それやったら、内装も店名も変えてやろうやって。俺関係なしで。これまでのものをいったん終わりにしないと次の新しいものは生まれへんのんちゃうかって。それで作ったんがNOON。
―すごい勇気ですよね。
K うーん。調子に乗ってたんもあるんちゃう?いけるやろって(笑)
―流行ってましたからね。
K あと、オープンの時の苦労を知ってるから。怖いっちゃ怖いねんけど、あれ乗り越えられてんから大概いけるやろうって思って。で、NOONに変えてん。その時には、すでにクラブって付けるのもどうかなって。カテゴライズはみんな膨らめて言うけど、俺らの意識の中ではカテゴリー自体も無くそうっていう感じがあって。だからもうただ単にNOONだけにしようやって。しかもカフェも付けようって。昼間営業できて。最初からカフェありきで計画しててん。それがNOONやねん。まあ俺自体は立ち上げの時点で引退してるから経営にもほとんど首つっこめへんかってんけど。
―元経営者として当時も今でも「ここにはこだわりたい」という点はありますか?
K 俺はお金うんぬんより、人間関係とやっぱり新しいものを発信してるかっていうのがあんな。昔から見た目で、お金優先の人間のように見られることが多かったけど(笑)俺はお金は自分で稼ぐっていうタイプやねん。金は自分で稼ぐ。だから、お金のためにへつらうっていうことはしたくない。だから、クラブ営業せえへんかっても、今のNOON+CAFÉで黒字出す自信があるしDJとかミュージシャンとかにもへこへこしたない。
―そんな金光さん見たこと無いですね。
K イヤやねん。意味無いことは止めたら? って感覚。でも、やっぱりそういうのんがDAWNとかNOONの基礎になってて。金さえ積めばやらしてくれる、とか一切無いと思う。やっぱりちゃんと選んでやらんと。大した儲けはないけど、別にひもじい思いもせえへんっていう。それ位でええと思う。あと、DAWNからずっと守ってきてんのは箱貸しは無し。
―箱の側がセレクトしていく。
K 箱貸しをやると、店の求めてる方向と全然ちゃうことでもお金さえ積めばできるとかってなってまうやろ。それは無しやろって。だから俺らは徹底的にキャッシュバックで、共催っていう形でやんねん。内容が合えへんかったら、うちとちゃうなって断ることもあるし。それとか、自分らそれちょっとちゃうでって修正させたりっていうこともあるし。それが俺らなりのクラブシーンに対する思いであったり、貢献やと思ってる。
次ページ 「文化としてのダンス」