Introduction

話のあいまに何度も繰り返されたことば。
「大前提は、子どもにとってどうなのか」
では、大人は? 「環境をつくるだけでいい」
サッカーあるいは教育にかぎらず様々な分野でトップダウン/ボトムアップの方式が見直される現代において、
SEIKAのスタイルは明らかに他と一線を画しているように思う。
“「遊び」と「環境」だけ与えれば、子どもは伸びていく(金田喜稔)”
現サッカー解説者のことばが示す場所を、ひとつの花園と見立てたとき、そこでの「遊び」また「環境」とは何か。
同中学校サッカー部のコーチ、山本悦史 さんに声を聴く。

Interviewee profile
山本悦史

京都生まれ、滋賀育ち。
現京都精華女子中学高等学校サッカー部コーチ/立命館大学大学院社会学研究科所属。
研究のテーマは「プロスポーツクラブの地域戦略とイノベーションのジレンマ」について。

トップダウンとボトムアップ

-“自主性を尊重する”といったスタイルは以前からのものですか?
山本悦史さん 以下Y) いえ、もともとは真逆の“大人が教え込む”というか、まさにトップダウン、ミスをすれば怒鳴り散らしたりということが平気に起こっていました。そうなってくると選手というか子どもたちの顔がすごい強張ったり、ほんとうに体に異常が出ちゃったりとか。サッカー嫌いになってるだろうなって思わせるような。でも、それがある意味普通というか、こっちもそういう教え方がチームを強くする術やと思っていた部分もある。
-しかし、当時の結果や実績をみると。
Y 創部から4年目で中学のチームが全国大会(U15)に出たのかな。
ハーフタイム時に見られた「子ども主催のミーティング」

ハーフタイム時に見られた「子ども主催のミーティング」

-その時も指導法はいわゆるトップダウンのままで。
Y そうですね。基本的にはこっちで教えこむというか。ただ創部当初に関しては部員数が11人に満たなかったこともあって、すぐに全国大会を目指そうといった雰囲気でもなかったですね。ドッジボールをしたりとか…
-その場に集まった子たちが楽しめるような。
Y はい。それで全国に出るという理想と現実が近づき始めてきたときぐらいから、トップダウンの指導法に重きがおかれていきましたね。ちょうど2年目くらい。実際この頃に入った子が日本代表U17に選ばれて、出番は無かったけれど、トリニダード・トバゴで準優勝したメンバー(※1)にも入った。彼女はいま早稲田大学でキーパーをやっているんですけど、そういう子がボチボチ出始めたり。1期生も含めて創部当初から能力の高い選手は多かったと思います。高校チームができてから初めて全国(高校選手権)に行ったのもそのメンバーでしたね。
(※1)三田一紗代

先発出場の機会を与えられれば常に安定したパフォーマンスを披露するゴールキーパー。“ヤングなでしこ”と呼ばれた同世代の仲田歩夢(現 INAC神戸レオネッサ)、横山久美(現 岡山湯郷Belle)などとともに将来の“なでしこジャパン”入りが期待される選手の一人。

(「早稲田スポーツモバイル」より引用)
-先ほどの話に戻ると、いわゆるトップダウンのやり方で一定の実績は残しているわけですよね?そこから現在のスタイルに移行したというか、結果だけを軸に据えず進んでおられるというのがとても興味深いのですが。
Y そうですね。ただどこかで限界は感じていたのかもしれません。それに合わせて、スタッフが自分の経験でものを教えなくなったというか。言わば、外にどんどんと出て行くようになった。スタッフが外部の面白い指導者の方に教えを請いに行くということをこの辺りからやり始めましたかね。
-教えを請いに行く。
Y 高校の3学年がすべて揃った時期くらいから、東北で活動するチームと交流するようになって。例えば、聖和学園(※2)って日本の女子サッカーの第1回の優勝校なんですけど、そこに面白い先生がいたり。あと塩釜FC(※3)って男子チームの小幡さん(※4)とか。この方は本当に子どもたちが楽しくなる環境をつくることに力を注がれていて「環境をつくるだけでいい、オトナは教えないことが教えることなんだ」って。 その辺のエキスを精華のスタッフ全員が小幡さんたちに直接会いにいって、吸収してきたというか。また今夜のようにお客さんに対しては全力で“おもてなし”するっていうのも、この人達から学んだことですね。
(※2)聖和学園

大切にボールをつなぐこと それは、大切に“夢”をつなぐこと 夢をつなぎ、観戦しているすべての人に感動を伝えたい それがVISIONARYTEAMの使命

(※3)塩釜FC
1964年、宮城県塩竈市にサッカースポーツ少年団として発足。以後、紆余曲折を経て現在の社団法人塩竈フットボールクラブへ。創設の経緯は木村元彦著の『蹴る群れ』(講談社)に詳しい。
(※4)小幡忠義
1940年宮城県塩竈市生まれ。現塩釜FC理事長。
-“おもてなし”ですか。
Y 宿を取るとかご飯に招待するっていうのも、この人たちがやってくれたことで。僕みたいなペーペーの若者がちょっとお話聞きたいので行ってもいいですか、といったらJヴィレッジ(※5)の一室、ホテルみたいなところを取ってくれて、ご飯も美味しいところに連れて行ってくれたりとか。何から何まで本当に分け隔てなくやってくれた人たちを目の当たりにして。だから、後日、小幡さんが京都に来てくださった時は監督(の越智さん)を中心に精一杯のおもてなしをしたり。あと、もう僕らが真似するだけじゃなくて、小幡さん自身に選手を教えてもらったりだとか。子どもたちを色んな大人の方に触れさせるっていうのも大切だなと。
(※5)Jヴィレッジ
1997年、福島県浜通り南部に開設された日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター。
-きっかけや出会いを多くつくる。たくさんの選択肢の中から子どもたちが選べるように。
Y あと、塩釜FCは自分たちで芝生も作っていて。塩釜方式(※6)といって有機肥料とかを使って芝を育てているので、従来の芝よりも育ちやすかったり。まあ、まず何故芝生にするのかってところなんですけど。
-そもそもの理由ですね。
Y 子どもたち楽しくなるでしょ。塩釜FCの子たちはスライディングをむちゃくちゃするんですよ。うちらの子の弱みというか、うちのグランドは土で、石がボコボコと出てるんで、それでボールタッチが上手くなるという利点もあるんですけど。スライディングをしなくなる。
(※6)塩釜方式

グラウンドの土を掘り返した上で堆肥を混ぜ、芝の種をまいて生育させる手法。かかる費用は従来の手法の数分の一で済むという。

-転ぶと痛いから。
Y はい(笑)練習中のミニゲームにしても塩釜の子らはバンバン意味もなくスライディングして転げまわって。楽しそうにやってる。だから、それを見ると余計に環境づくりというか。勝手にやるんですね、環境さえあげとけば。子どもらは勝手にやるという。そこが多分スタートとしてはかなり大きいと思います。だから教えなくても導けるというか。導いているつもりもないんですけど。逆にその環境の中で新しい発想で選手達がやりよる部分もたくさんあるので。
-そのあたりは塩釜や精華の話に限らず、いま日本のサッカー全体がなおも抱えている問題だとも言えますよね。どこもかしこも芝のグランドが普及しているとは言いがたい。大半の学校は土のグランド、あったとしてもその大半は人工芝。人工芝でもスライディングは怖い、摩擦熱で。
Y たしかに。痛いですよね、あれ。人工芝も限りなくいまは天然芝に近いものにはなってきているんですけど。天然芝は掘れるんですよ、スパイクでぐっと踏み込むと。でも人工芝は掘れない。だからモノによっては怪我しやすくなったりとか。ぐっと踏ん張った時に土ごと掘れたら滑って終わりなんですけど、掘れないと止まっちゃう。だから…そのままグキって。
-しかし、天然芝の導入は…
Y 湿気があって腐ったりもするし、水やりとかも必要やから、お金もかかる。
-ランニングコストの面でも人工芝の場合は一回作っちゃえばある程度持つけど、天然芝の場合はグリーンキーパー要らないのとか、芝めくれた時どうするのとか…まあ状況は日々変わってきているようですが。
Y 一時期、輸入じゃないですけど他のグランドから持ってくるという話もあったんです。福島とかの芝とかをこっちに持ってきて、根付かせてしまうとか。色々問題があってなかなか進まなかったですけど。
-先の塩釜FCの場合はどうだったのでしょう?
Y 行政も巻き込んでというカタチにはなるんですけど、時間をかけて芝生を作って、重機・機材は保護者の会社に借りたりとか。例えばネットが要ると、ボールが飛んでいかないように。そこに漁網を使ったりして。だからお金をかけずとも手作りでできるという証明をしたっていうのと、子どもたちがグランドづくりのプロセスに関わるっていうことですよね。
京都精華女子中学校・高等学校サッカー部

京都精華女子中学校・高等学校サッカー部

-自分たちの遊び場としてですね。
Y そう、だからグランドにもゴミを捨てなくなる。
-自分たちの場所だから。そこがホームになると。
Y はい。これもある意味環境づくり。一緒にプロセスを共有するっていうことが愛着を生み出すと。結果の共有ではなくてプロセスの共有というか、それ自体が教育に結びついてくる。これは芝生化という問題に限らず、街全体、親とかも含めてグランドを、クラブを作っていく。それがクラブの姿やなあって思います。精華じゃなくて塩釜の話ばっかになっちゃうんですけど。面白いから。
-どうぞ。
Y 宮城のチームなのでやはり先日の震災の影響とかもモロに受けて。家を流された子がいて、その子が「辞めます」ときたと。でも「やめるな、サッカー続けろ」と。「そういうのがクラブやから、絶対やめるな」と。それで卒団まで続けることができたという話とか。他にもサッカーの関係で塩釜FCの事務所に支援物資が全国のチームから届いたり(※7)。それまでのネットワークを通じて。その集まってきたものを警備に疲れた地元の警官とかが寄り合って分け合うとか。
(※7)支援物資が全国のチームから届いたり

かつて、学校や公民館といった公的な施設が普及する以前、日本古来の寺がその地域の住民たちのよりどころになったように、塩釜FCは緊急時にその役目を果たしていた。「寺ですね」と小幡に言うと、「そうね。うちは駆け込み寺かな」と笑った。一方で、テレビ局のクルーを連れて来ようとしたJリーガーには来訪をきっぱりと断った。「美談を作る場所ではない。マスコミには美談よりも事実を伝えて欲しい」

(木村元彦「被災地救援を支えた塩釜FCの絆」より引用)
-避難所のような。
Y そう。サッカークラブのありかたというか、クラブが非常時に役立つという事例にもなったと思います。
-クラブの枠を超えた、というか。いや、もしかしたら元来クラブとはそのようなものであったのかもしれない。
Y 小幡さんがドイツに行った時の話をしてくださって。「ドイツに行くとやっぱりすごい」と。芝のグランドが何面もあって、クラブハウスではテニスとかみんなが好きなスポーツやって、汗流したらビール飲んで帰るというような。そういう生活が営まれている光景を目の当たりにしたそうです。
-その影響を活かして、といったのは創成期のJリーグの姿とも…
Y はい。サッカー界の背景とも繋がってくるチームなんですよね。しかし、塩釜FCは株式会社ではなく社団法人としてやるという方針をいちはやく打ち出したり。Jリーグに根ざすというよりも他のヴィジョンでクラブ作りをされている。そこがまた面白いと思います。
山本悦史さん

山本悦史さん