Introduction

「Back To The Basic」というコトバがある。
「Basic」、すなわち「基本」/「原点」に立ち戻ること。
だが、そもそも「基本」とは何か。「原点」とはどこか。
あるいは、それらは伝承可能なものなのか。
ここで語られるのは「藤枝東」、「豊田」自動織機といった、日本のサッカー/産業の「原点」そのものである。
そして、話し手のコトバによれば、「信頼関係と集中して取り組む意識」を条件として、「基本」の伝承は場所を問わず「可能となる」。

このコトバは時代を超えるか。

「原点」の中に身を置いて過ごし、かつ聴き手の「父」でもある久野裕一さんに声を聴く。

Interviewee profile
久野裕一

名古屋市生まれ、名古屋市育ち。サッカー部員として藤枝東高校・同志社大学に在籍。同大学在籍時には関西選抜、日本選抜の一員として日本のサッカーに貢献した。現在は豊田自動織機の社員として各現場の改善活動に携わっている。

「サッカーのまち」藤枝東

-なぜ、愛知県の中学から静岡県の高校へと進学することになったのですか?
(久野裕一さん 以下K) もう40年以上も前の話になりますが、高校への進路決定をしなければいけない時期であるのに、なかなか決めかねていました。多分、学年でも一番遅かったんじゃないかと思います。というのは、サッカーをやりたくてサッカーの強い高校を希望していたからです。県下にも意中の高校はありましたが、当時、名古屋市は学校群制度 (※1)というものが初めて出来て、2校を受験し、合格するとどちらかに振り分けられるというものでした。従って、合格しても、希望校に入学できるのは50%ということになります。
そんな時、正月恒例の全国高校サッカー大会の決勝をテレビで観ました。衝撃的でしたね。大阪の長居競技場がその舞台となり、大阪代表の北陽高校と静岡代表の藤枝東高校でした。藤枝東のサッカーは、今までに観たことがないような華麗なパス回し、多彩な攻撃と全員が攻守をするというものでした。さらにはじめて観る2トップ(多分、日本では初めての採用)、フォワードのひとりが瞬足でテクニシャンというものでした。ゴール前の空中戦では体格に勝る北陽の選手に何度も跳ね返されるも攻撃を続ける姿勢は、当時の私の瞼にしっかりと焼きついてしまいました。藤枝東に入って、あんなサッカーがしたい。藤色のユニフォームを着たい。長居競技場に自分も立ちたい。もう、頭の中には、藤枝東しかありませんでしたね。
-なるほど。当時の藤枝東の監督、長池実(※2)さんは、かのデトマール・クラマー(※3)による第1回FIFAコーチング・スクールの受講者でもあったと聞きます。長池実監督の練習メニュー、理念、指導法などはどんなものだったのでしょう?
K 当時のクラマーさんがどのような指導を選手やコーチにしたかはわかりませんが、長池先生が「クラマーは高く上げたボールを額で止めてそのまま歩く」、「インステップでボールを柔らかく止める」などと仰っていたことから、実際にプレーをみせて教えていたのだろうと推測します。
-「やってみせ」ですね。
K 実際、藤枝の練習でも、長池先生自身が生徒にみせて教えることが多かったので、その指導スタイルは受け継がれていたのだろうと思います。当時のサッカーは、前に大きく蹴る、体力・走力重視の練習、そして根性といったところが一般的でした。ですが、長池先生は根性云々という考え方を好んでいなかったと思います。いつも口にされていたのは、集中という言葉でした。練習内容も時間も集中的に行い、他の時間は勉強をしろ、と。毎日の練習時間は、1時間半。毎週月曜日が休みで、火曜日から日曜日まで。曜日ごとに重点テーマが決まっており、パターン化されていました。火曜日が筋力トレーニング、水曜日がテクニック、木曜日が走力、金曜日が戦術、土・日曜日が試合(※4) といったように。
-偏りのないように。
K ええ、体力だけではなく、個人技だけではなく、バランスのとれた選手づくりとチームづくりを考えられていたのだと思います。さらに一時的な選手・チームの向上ではなく、長期を見据えての指導であったと思います。それはあの頃、藤枝が多くのプロの監督・コーチ、全日本代表選手を輩出していたことからも窺えますし、もちろん、現在においても、その指導理念や指導方法は大切であると考えます。長池先生は、高校サッカーだけではなく、間違いなく日本のサッカーを考えていたのだと思います(※5)
-当時の1時間半という練習時間にはどのような意図が込められていたと思いますか?足りない、もっとやりたいと思う部員も多かったのでは。
K 試合時間を想定してかどうかはわからないものの、常に集中することを言われていましたので、短時間の中で、いかに自分を追い込んで、どれだけ集中してやるかを練習の基本にしていたのでしょうね。
そうやっていると、走力でも10分をトップスピードで走ればそれはキツかったし、筋力トレーニングも厳しかった。しかし、少しのインターバルをおいて交互に行われる練習は、効率的に考えられたメニューなのだと考えていました。
-休憩時間、インターバル中はなにを?
藤枝東高等学校サッカー部

藤枝東高等学校サッカー部

(※1)学校群制度
愛知県下では1973年~1988年実施。いくつかの学校で「群れ」を作り、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける方法。各自治体の公立高校全日制普通科のみが対象であり、専門学科や国立、私立高校は対象にならなかった。
(※2)長池実
東京都練馬区出身。藤枝東高校の元国語教師。昭和38年の第41回全国高校サッカー選手権大会において同校を優勝に導いて以来、じつに計8回の全国大会優勝を成し遂げた名伯楽。著書に『サッカー教室』など。
(※3)デトマール・クラマー
ドイツ・ドルトムント出身。西ドイツユース代表監督、日本代表コーチなどを経てFIFA公認のコーチとなり世界各地で指導にあたる。名称は「日本サッカーの父」。
(※4)長池実の練習法 ~ ’74-76 年度 藤枝東高校サッカー部メニューより~(PDF)
FujiedaMEnu
(※5)
この本は、サッカーをはじめて練習しようとこころざす人たちから、高校のトップクラスのプレイヤー、またその指導をする方々に読んでもらうことを頭において書きました。将来の日本のサッカーを背おって立ち、アジアのチャンピオンになり、世界のトップクラスに追いつこうとするには、16,17才くらいまでにこれだけのことをマスターしよう。サッカーをするにはこういう気持ちをもとう、という目標をあげたつもりです。
(長池実『サッカー教室』より引用)
K 練習時間が、約1時間半ですので、途中での休憩時間はありません。たとえば、今ではポピュラーかもしれませんが、クーパー走という12分間を走り続けるという練習がありました。それを少々アレンジしたものだと思いますが、グラウンドのトラックに選手が均等に間隔を空けてスタートし、ひとり抜いたらプラス1、ひとり抜かれたら、マイナス1とし、点数を競い合いました。当然、プラス点を多くしようとみんな必死になります。走り終わった直後は、息もあがりヘトヘトの状態ですが、その状態ですぐにボールリフティングとかをするわけです。よく「限界までもっていけ、限界から先が身につくのだ」と言われていましたが、呼吸を落ち着かせることも兼ねてのインターバルだったと思います。当時の私はクーパーという人も練習方法も知りませんでしたが、走力以外にも随所にクーパー練習法 (※6)が取り入れられていたので、有効なメニューとして考えられていたのだと思います。中学時代にはなかった様々な教材がそこにはたくさんありました。
-いわゆる「既視感のない練習」ですね。選手がダレたり、指示を聞かないことなどは無かったのでしょうか?
K 無かったですね。何度も全国優勝に導いた監督を信頼していましたし、この練習に間違いはないと思い励んでいました。ただ、練習後は早く帰宅して勉強しろ、というのが監督の言葉でしたが私は練習が終わっても、ひとりボールを蹴っていました。越境入学をしてサッカーをやりにきたのだから、いつかレギュラーをと思い続けながら。
-たとえば、サッカーの文化が根付いていない地域や低偏差値の学校/生徒たちにも、藤枝東の練習時間や内容は適用できると思いますか?
K 監督・コーチと選手間の信頼関係と、短時間を真剣に取り組む意識があれば充分可能であると考えます。選手がやらされ感を抱いていたり、信頼関係の薄い状況には適合せず、時間をかけて繰り返し行う練習のほうが有効となるのかもしれない。実際に、当時の静岡県内の強豪といわれるチームのなかには、長時間の練習や走力に重きをおいた練習をしていたところもありましたから。
(※6)

オランダ人指導者ウィール・クーバーによる革命的なサッカーの指導法。
https://www.youtube.com/watch?v=SHdknj0TLuQ
-なるほど。次の質問ですが、先ほど藤枝の練習は「曜日ごとに重点テーマが決まっており、パターン化されていた」と仰っていましたが、その中であえて特徴を挙げるとしたらどうでしょうか?
K 基本練習 (※7)が多かったように思います。トラップの仕方。インサイド、インステップ、インフロントでの蹴り方。ヘディングの踏み切り足、ジャンプする時のタイミングなどなど。すべてがわかりやすく納得できるものでしたね。常に先生がそれらを実際にやってみせてくれていましたので。
-上手な大人、経験者として。
(※7)基本練習
日本代表の長所は速さ(テンポ)であり、短所はテクニックである。だからもし短所が長所のレベルに追いつけば、世界でも戦える。それがクラマーの考え方だった。「まだまだ彼らのテクニックは、平均以下にしか達していない」そう感じたクラマーは、まずテクニックを磨くことを最重点課題とした。「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」これはクラマーの残した名言である。
(加部究『大和魂のモダンサッカー』より引用)
K どうでしょう。元プレイヤーだったことはまちがいないですが、練習中教えるプレーはお世辞にも上手とは思えませんでした。でも、選手たちは真剣にそのプレーを観ていました。なぜなら、先生がとても真剣で一生懸命でしたから。
-「とても真剣で一生懸命」。そんな長池先生との関係の中で印象に残っていることばや、エピソードなどがあれば教えてください。
K 私が下宿をしていた飲食店で先生はいつもお酒を飲んでいました。体は160センチ程度と小柄でしたが、それは酒豪でした。界隈ではかなり有名だったと思います。私が店に呼ばれることもあり、よく色々なサッカー話を聞かせてもらいました。欧州や南米の個々の選手の話や、そこの国がどうだったとか、スタジアムがどうだったとか。当時、越境入学をして下宿していた生徒は私一人でしたから、気にかけてもらっていたのだと思います。もちろん私は、ジュースでしたが。
-学校、グラウンド以外の学び舎があったわけですね。学べてなおかつリフレッシュできる場所が。
K あと、東高の正門の前に森本商店というお店があって。通称「森パン」といって、生徒、OB、関係者なら誰でも知っています。私が通っていた頃は、先代のおばさんも健在で運動部の連中は、練習後によく立ち寄っていました。とりわけ、サッカー部にはひいき目で、そこでの飲食がツケでOKだったのはサッカー部の特権でしたね。私はいつも練習帰りにパンと牛乳を食べていました。おばさんはそれまでサッカー部に在籍した選手の名前を全て覚えていて、よく話を聞きました。「あの頃、誰々はこうでしたよ」とか。1年生の頃は、悩みをきいてもらったり、励ましてもらったりも。森パンがあり、おばさんがいて、という環境は恵まれていたと思います。大きな支えであり心のよりどころであり、みんなの憩いの場所であり、ミーティングの場所でもありました。東高のサッカー部を本当に応援してくれていたんだと皆が感謝をしています。
-東高サッカー部の母のような存在。
K この森パンには信じられないくらいの情報が集まってきます。今誰々はどうしているかとか、大会中は、どこの高校がどこにいくつで勝ったとか。ほとんどリアルタイムに近いかたちで情報が全て森パンに入っていました。OBが連絡を入れるんでしょうね。当時は、携帯もネットもありませんでしたから。そのネットワークは相当なものだと感心しましたね。
-森パンのおばさんをはじめ当時の藤枝にはすでに❝文化としてのサッカー❞が形作られていた。
K 東高のサッカーの試合ともなると、街のお年寄りが何人も応援に駆けつけるわけです。そして、びっくりするくらいサッカーに詳しく「今のはオフサイドだ」とか「違う」とか「マークがズレている」とか「何番に注意しろ」とか。私は、サイドのポジションでしたから、目の前で名前を呼ばれ、よく注意されました。「スペースに上がってボールをもらえ」などと熱く、優しく、自分の子供か孫のように。娯楽であり、楽しみであったのでしょう。静岡の藤枝という土地柄なのかもしれないと思います。気候も温暖で、自然がいっぱい残っており、そんな環境がのんびりと優しい人たちをつくるのかなとも今では思いますね。
久野裕一さん

久野裕一さん

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