Introduction

「Back To The Basic」というコトバがある。
「Basic」、すなわち「基本」/「原点」に立ち戻ること。
だが、そもそも「基本」とは何か。「原点」とはどこか。
あるいは、それらは伝承可能なものなのか。
ここで語られるのは「藤枝東」、「豊田」自動織機といった、日本のサッカー/産業の「原点」そのものである。
そして、話し手のコトバによれば、「信頼関係と集中して取り組む意識」を条件として、「基本」の伝承は場所を問わず「可能となる」。

このコトバは時代を超えるか。

「原点」の中に身を置いて過ごし、かつ聴き手の「父」でもある久野裕一さんに声を聴く。

Interviewee profile
久野裕一

名古屋市生まれ、名古屋市育ち。サッカー部員として藤枝東高校・同志社大学に在籍。同大学在籍時には関西選抜、日本選抜の一員として日本のサッカーに貢献した。現在は豊田自動織機の社員として各現場の改善活動に携わっている。

サッカーから社会へ

-そんな環境下で練習に励み、選手としても徐々に芽が出てきた。
(久野裕一さん 以下K) レギュラーとして試合に出たのは3年からでした。技術的には、やはりみんなには敵わないことを自覚し、なにか人よりもという気持ちから、誰よりも走ることを心掛けたんです。幸いにして、2年生の後半から「走力で試合の流れを変えられる」ということで、毎試合ではないものの度々サブとして試合に出場できるようになりました。その頃から、名古屋の両親にも試合の予定などを話すようになって。わざわざ試合を観に来てくれたこともありましたね。
-3年次には国体の選抜にも選ばれ、静岡代表として全国優勝に輝いたと聞いています。
K 準決勝の東京代表、決勝戦の広島代表に勝っての優勝でした。とても嬉しかったですね。この時、ようやく両親に対して少しの恩返しをできた気がしました。この年の国体は開催地が佐賀県で、会場は多久市でした。静岡県代表の父兄は父兄会なるものをつくり、現地に駆けつけて応援してくれました。一方、サッカーのルールもよくわからない両親は、他の選抜選手の父兄とサッカーの話ができなかったそうで。「とても不安だった」という言葉を覚えています。家を長期間留守にすることも初めてだったようなので、家のことも心配だったのでしょう。
-その後、同志社大学へと進学し、サッカー部員として1年の頃から関西選抜に、そして日本代表に選出…とまさしく順風満帆な選手生活を送られていたように想像するのですが。
K 当時、日本サッカーの代表には全日本、日本選抜、ユースと3つの括りがあって、私が選ばれたのは真ん中の日本選抜(日本代表予備軍)でした。東京大学の検見川グラウンドが当時の選考合宿所で、選考されたのは2回目の合宿参加時でしたね。1回目の合宿では怪我をしたこともあって最終選考で名前を呼ばれず、検見川から羽田へと出発する代表メンバーのバスをお見送り。遠征できるすべての荷物を用意しながらのお見送りです。合宿中、千葉県の県庁でパスポートを取得し、ユニフォームやスパイクのサイズ、ブレザーのサイズまで登録していたのに、あれはどうなっちゃったのだろう、などと思ったりも。2回目は、バスから手を振りアジアの大会へと出発しましたが、どちらもあの場面は辛いものがありました。何週間も合宿所で苦楽をともにした仲間でしたから。
当時の新聞記事

当時の新聞記事

-日本代表時の練習内容や試合でのエピソードなどで印象に残っていることはありますか?
K 参加したのはインドネシアのマラハリムカップというアジア大会でした。そこではとにかくすべてが初めての経験でとても驚いたことを覚えています。試合前、警官がチケットを持たずに入場しようとしたのであろう子供の頭をライフルの柄で殴打したり、試合後、観客が日本チームがホテルに帰るバスを取り囲み「バケローバケロー」と叫んだり。私はそれを「負けろ負けろ」と言っているのだろうと思いましたが、「バカヤロウ」なのだと通訳が教えてくれました。戦時中に覚えた日本語なのでしょう。毎試合そんなことが続き、試合後は荷物をまとめてすぐにバスに乗り込みました。バスは取り囲まれ、ものを投げつけられ、唾をはかれ。戦時中、どんなことがあったのかと思うばかりです。
-絶対的なアウェイという状況下での大会。試合結果の方はどうだったのでしょう?
K 試合は準決勝で、地元インドネシアに破れ、3位決定戦は韓国戦でした。結局、勝利してなんとか3位に入ることができましたが、韓国選手のなかには、キムジン・クック(※1)というシャ・ブンクン(※2)と並ぶ、韓国のスター選手がいて。ドリブルがうまく、ボールをどうしても奪えず、私が体ごとぶつけていき、仲間がボールを奪う。こんな選手がいるのかと、これもやはり驚きの一つでしたね。
-当時の記録を見ると右サイドバックとして、ほとんどの試合に出場していたそうですね。しかし、大会を終えて、大学のサッカー部に戻った直後の練習中に…
K スポーツに怪我はつきものですが、あの時は自身の気の緩み以外のなにものでもなかったと思います。右膝内側の靭帯損傷という怪我でしたが、多くの人に色々な治療法を紹介されました。私自身、焦っていたのでしょう、だいぶ治ったと思い、ボールを蹴り始めるとまた同じことの繰り返し。結局、1年半程を棒に振ってしまいました。
-復帰後はどうだったのでしょう?
K 結局また同じところを怪我するのではとの恐怖心もあり、思い切ったプレーも出来ずじまい。大学2年の関西学生リーグの試合会場で切符切りをやっていたとき、誰からも「なんで、そんなことをしているんだ」と口々に言われ、とても辛い思いをしたことを覚えています。左足でのプレーに練習を重ね、ようやく3年の終わりから4年にかけては試合に出られるようになったものの、それ以上のことはついにできませんでした。
(※1)キムジン・クック
韓国・華城市出身。国際Aマッチ94試合27ゴール。小柄ながらも卓越したボールコントロールやクロス能力を活かし、1970年代韓国サッカー不動のウィングとして君臨。引退後は韓国サッカー協会技術委員会委員長(強化部長)、専務理事などを歴任。
(※2)シャ・ブンクン
韓国・華城市出身。国際Aマッチ121試合55ゴール(韓国史上最多記録)。爆発的なスピードと得点力を武器とした韓国サッカー史上、最高のストライカー。現在は解説者として活躍するかたわら、私費で「シャ・ブンクンサッカークリニック」を開催。主な受講者にパク・チソン、キ・ソンヨン、イ・スンウなどがいる。
-そして、プレイヤーとしての道を離れ、社会人としての道を歩み始めた。
K リハビリの過程で、自身の状況は充分わかっていました。また、自分は長男であり、両親の希望もわかっていましたから、地元に就職することは必然でした。当時としては例がなかった越境入学をさせ、大学も費用のかかる私大でかつ下宿生活。当時の、特に母親の苦労を親戚の人から聞かされていて。地元に帰ることと、大企業に入社することが親孝行であり、恩返しだと考えていました。
-そうして選んだのが豊田自動織機(※3)だった、と。
K はい。地元でも「しょっきさん、しょっきさん」と呼ばれるくらい皆に親しまれた会社でしたから。
-入社に至るまで、そして入社後はどんな状況だったのでしょう?
K 内定連絡をもらうまでは、とりとめもない面接内容からしてほぼダメだろうと考えていました。面接時、サッカーの話ばかりしたこと以外は何も覚えていません。大学で専攻した経営管理論も、ほとんどわからずじまいでしたから。一流大学出身者がほとんどである中、私などはラッキーだったのでしょう。入社すぐは教育期間というものがあって、知らないもの同士での教育でしたが、たまたま小学校時代にサッカーの試合をしたことのある仲間がいて、よく話をしていました。教育期間を過ぎると配属先を一人ひとり呼ばれるときに、彼の配属先が図書室と呼ばれ、笑いながら、会社にも図書室があるんだなと思っていた記憶があります。あとでわかりましたが、図書室ではなく、特許室でした。
(※3)豊田自動織機
1926年創業。愛知県刈谷市豊田町に本社を置く日本の機械メーカー。事業内容は繊維機械の製造・車両組立・ニューエレクトロニクス製品の生産など多岐にわたる。現在のトヨタ自動車は豊田自動織機の自動車部が独立したもの。
-ご自身の配属先は?
K 私は、フォークリフト部門の生産管理部配属でしたね。生産管理部といえば、生産計画を立て、生産指示をラインに出し、納入部品の進捗管理から出荷管理までを行うのが主な業務でしたが、最初はひたすら雑用でしたね。はじめなので仕事がわからないことは当然なれど、当時は鬼のような先輩ばかりで「見て覚えろ」とか「顔を洗って出直してこい」などとよく言われていました。特に現場の工長など、鬼の中の鬼のような人で、お願いも話も聞いてもらえるような人ではなかったですね。ですが、何度も出直して鬼工長に会いにいくと、あるとき「わかった」と一言。そこからが早いんですね。やるといったら真剣にやってくれる。とても嬉しかったです。
-なるほど。そんな中で久野さんが新人として心がけたこと、会社に合わせた/合わせなかったこと、同世代でサッカーの道に進んだ仲間たちに思ったことなどがあれば聞かせてください。
K 入社してからは、とにかく一生懸命でした。早く仕事を覚え、早く一人前として認めてもらうことが一番大切なことだと思っていました。とにかく言われたことは何でもやったし、人の嫌がることも何でもやった。率先して。またそうすることが、当然と考えていました。真面目に一生懸命にやる、という考え方でしたね。これは、高校1年の頃、まわりの仲間とサッカーの技術的なところで大きな差があり、悩んでいたころ、練習後に毎日立ち寄っていたパン屋さんのおばさんに「久野さん、一生懸命やればいつか花は開きますよ」と励まされた言葉が大きかったのかなと感じます。
-森パンのおばさんですね。
K はい。会社に合わせる/合わせないということ自体、当時はまったく考えもしていなかったと思います。ただ、何年も同じ会社組織の中にいると、やはり色々な人間がそこにいることがわかってきます。誰しも出世を願うのは当然だと思うけれど、その過程は人それぞれで。専門分野をさらに追求するものもいれば、上司の機嫌を伺い上司に阿ることに一生懸命なものもいる。総じて後者が多いように感じますが。それが、いろいろな生き方であり、その人間の人生なのだとも思います。ですが、愚直に一生懸命やり、その姿、その姿勢に共感するものが仮にひとりいたとするなら、人が人から素晴らしいと言われるならば、会社人生、それこそが最高ではないかと最近はいつも思いますね。
-これまでの社会人生活をふりかえって、サッカーを経て社会人となった、この過程についていま思うことはありますか?
K そうですね。スポーツの中でも、サッカーはラグビーやバレーボールと同様に団体競技であり、ひとつのボールを追いかけるという意味では、会社とも共通点がある(※4)と思います。互いのミスをカバーし合い、協力し、団結し、意思疎通が条件となり、そこから仲間意識が生まれる。そこで生まれた仲間意識は何年経っても変わることがないもので、かけがえのない財産ともいえます。一人の力よりも二人、三人と力を合わせることによって大きな力を発揮できることは、スポーツでも会社でも同じではないでしょうか。ただ、一方で、個人競技の楽しさを経験したかったとも思いますね。サッカーでは、たとえチームが勝とうと、自分がどれだけ貢献したのかが数値ではわからない。反面、個人競技のテニスやボーリングやゴルフや陸上競技にように具体的に数字がでることは、もちろん厳しさもそこにはあるのでしょうけど、その楽しさを経験できたらよかったなとも。今、ゴルフに夢中なのも、そこと繋がっていると思います。
(※4)

組織のカタチはサッカーとも…本来、仕事というものとスポーツとは、共通点が非常に多い。日本古来の競技には、相撲にしろ、剣道にしろ、また柔道にしろ、個人競技が多い。競技といわず、「道を求め、窮める」意味をこめたところは日本的である。仕事の世界で職人という個人芸が重んじられたことと一致している。西洋文明が導入されるとともに、西洋流の団体競技のスポーツがとり入れられ、それについて、仕事の世界も近代工業化し、職人たちの個人芸よりも人間のグループの和、すなわちチームワークが要請されてきた。

(大野耐一 『トヨタ生産方式』より引用)