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日本 • 大阪府 • 大阪市
illustrated by © タジマ粒子

Introduction

アルコールよりも人を酔わせるクラブミュージック。
二度とは来ない熱い一夜のために
選ばれたDJによるハラショーな音楽を抜きにして、
クラブを語ることなんてできるはずがない。

今夜、アノムラから流させていただくのは「DJ AGEISHI」のストーリー。
日本のクラブシーンにおける金字塔であり
34時間、ミラーボールと地球がずっとまわる間も、
たったひとりでレコードをまわし、客を踊らせつづけた稀代のDJ。

「その瞬間の自分に任せたアドリブで曲を選ぶ」
クラブDJだけに与えられたスぺーシーな自由と挑戦へ、
常に身を投じてきたレジェンドの声に、今回は耳をかたむけたい。

Interviewee profile
DJ AGEISHI

東京都中野区生まれ、渋谷区育ち。’73年東京赤坂MUGENでDJ活動を始める。’75年より、赤坂BYBLOSでソウル、ロック、ディスコミュージック(ガラージミュージック等)を中心に10年間活躍し、毎晩人々を踊らせ続けた。


’87年、六本木JAVA JIVEでレゲエ・アフロ・ラテン・スカ全般にワールドミュージックを中心にミックスしたDJスタイルを確立。’89年クラブカルチャーのパイオニア的存在であった渋谷のクラブCAVEがオープンし、レジデンツDJとして招かれる。’90年代初頭には、数多くのレギュラーDJをこなしクラブDJとしての地位を確立。’90年代後期、活動拠点を大阪に移し、PEACE CAFEのサウンドプロデューサーとして数々のオリジナルミックスCDを手がけるなど、カフェ&ミュージックをキーワードに演出。’01年より、WORLD(京都)にてレギュラーパーティーをスタートさせ京都のシーンにも影響を与える。’07年9月、Jet Set RecordsよりMIX CD “BUD:01″をリリース。 その他、有線放送 各FM局の幅広い選曲を手掛け手腕を発揮している。 ’07年10月、DJ34周年記念としてmontage(大阪)にて、34時間に及ぶ超 ロングセットプレイを敢行、DJの奥深さと感動を与え伝説を作った。’11年3月,NorwayはPrins Thomas主宰のInternasjonalより Ackin’との共作”Rain Parade” 12inchをリリース。今年で43年目、LivingLegend DJ Ageishiは今日もDJ道を歩み続けている。

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DJ AGEISHIとクラブDJの創成期

-AGEISHIさんが音楽と出会った最初のきっかけから聞かせてください。
DJ AGEISHIさん(以下、A) きっかけはやっぱり洋楽に出会ってからかな。1960年代、中学生の頃ぐらいに向こうのポップスとか。ビートルズ(※1)とかストーンズ(※2)世代なんで、それに影響されて。あと、どちらかというとラジオ派だったんで、ラジオで洋楽を聞いてました。
-ラジオはどんな番組を?
A 初期の深夜放送と言われているもの。オールナイトニッポン(※3)の最初のやつとか。夜に宿題しながらラジオ聴いてるみたいな。当時はそれしかないからね。テレビも洋楽やってる番組とかなかったし。
-同級生で洋楽好きな人とかは?
A 一部いたけどね。でもやっぱり情報はラジオ。雑誌も遅かったんで。深夜放送とFEN(ベースキャンプのラジオ)とか。それは完全なアメリカのヒットチャートをやるから情報も速かった。
(※1)ビートルズ
正式名称はThe Beatles。1962年にレコードデビューし、70年に解散したリヴァプール出身の伝説的ロックバンド。史上最も成功したグループアーティストとしてギネス認定されている。ロックとクラシック音楽の融合を成し遂げたとされ、ポピュラーミュージックの大ヒット作を多数生み出した。80年12月8日にメンバーのジョン・レノンが自宅前でファンの男性に射殺される。代表曲に「Help!」「Let It Be」「Hey Jude」など。
(※2)ストーンズ
正式名称はThe Rolling Stones。1962年にロンドンで結成されたビートルズと並ぶ伝説的ロックバンド。舌を出した唇のバンドロゴも有名。ブルースやR&Bなどの黒人音楽を取り入れたサウンドと“永遠の不良”と評される破天荒な生き様は今なお全世界のロックバンドに多大な影響を与えている。代表曲は「サティスファクション」「黒くぬれ」「悪魔を憐れむ歌」など。
(※3)オールナイトニッポン

ニッポン放送をキー局として放送される日本の深夜ラジオ番組。1967年から現在まで放送を続ける長寿番付であり、ラジオ深夜放送の代名詞ともいえる人気番組。放送開始当時はアナウンサーなどニッポン放送内部の人間であることがDJ(パーソナリティ)の条件とされていた。1973年に小林克也、泉谷しげるらがパーソナリティとして起用されて以来、現在では幅広い歌手、芸人、タレントらがパーソナリティを務めている。

-DJへの憧れも入りはラジオから?
A そうそう。ラジオ育ちなんで、ディスクジョッキー(DJ)に憧れてたの。でも、日本のラジオDJって喋る人やん。喋って、選曲はリクエストとか。それが海外と違うところ。アメリカでは全部DJがやってたからね。あと、日本のラジオでDJになりたかったら、大卒でアナウンサーの試験を受けないとそういう職種には就かれへんって聞いて。俺勉強嫌いだから。そんなことまですんのかいって(笑)
-なるほど(笑) バイオグラフィーには73年に「東京赤坂MUGEN(当時のゴーゴークラブ)(※4)でDJとして活動を始める」とありますが。
A  知り合いの先輩から「赤坂にDJを置いているお店がある」っていう情報を聞いて。当時は今みたいにDJっていう職業もアタリマエじゃなかったし、お店にDJがいるってどういうこと?って。そう思ってたら「興味あるなら行ってみたら」って言われたのがきっかけ。
(※4)東京赤坂MUGEN
1968年、赤坂に設立。通説では日本で最初のディスコ・クラブ。サイケデリックで色彩感溢れる店内、黒人バンドの生演奏が特徴的だった。三島由紀夫、川端康成、澁澤龍彦、小澤征爾から、横尾忠則、篠山紀信、三宅一生、コシノジュンコまでがお客として来ていたという伝説的な場所。1987年に閉店。
-当時のDJってどんな職業だったんでしょう?
A 今でいう黒服かな。面接のときに「君は何をやりたいの?」って聞かれて、DJやりますって言ったら「え?」みたいな。「バーテンとかウエイターとかそういう職種は採れるけど、DJだけでは採ってない」って言われて。
-専門職ではなかった。
A DJブースがあって、ちょっと片手間に流す感じかな。あと、当時のMUGENはバンドのライブがメインだったの。ダンスミュージックバンドがメインで、その合間がDJ。バンドやってDJやってみたいな。要はDJだけの店じゃないんで、ホールもやりながらバンドの転換時間にDJをやってましたね。
-お客さんは踊っていたんですか?
A 踊ってもいいし、飲んでもいいし、音楽を聞いてもいいってスタイル。60年代の後半とかに、今のクラブシーンの原型みたいなお店がもうあったの。俺らより上の世代の人たちが造った社交ダンス的なホールが。そこが段々MUGENとかのスタイルに変わっていく時代だったかな。60年代にキャバレーとかゴーゴークラブだった場所、そういう場所が日本のダンスミュージックのルーツだったの。
-MUGENではどんな曲をかけていたんですか?
A もちろん洋楽専門で、あとMUGENの場合はバンドライブがメインだったから。バンドで踊って、DJはブレイクみたいな。だから、どっちかというとソウルやロック、ファンク、ブラックミュージックが中心だったかな。
-そして75年に赤坂BYBLOS(※5)へと活躍の場所を移された、と。
(※5)赤坂BYBLOS
1968年、赤坂に設立。MUGENと同じビルだった。国内外アーティストはもちろん、海外の各国の大統領令息、皇太子、令嬢、大使が来日の際にお忍びで訪れていた。入場制限があり、入り口で服装などのチェックを通過したお客だけが、洞窟のような店内に入れた。一説ではMUGENとつながっていて、常連のみがMUGENとBYBLOSを行き来できたとか。1987年に閉店。
A DJの先輩が「もし良かったらBYBLOSでもDJやらへんか」って。BYBLOSは今のクラブスタイルと一緒で、完全にDJがメインだったから。
-BYBLOS では10年間ほど。
A そうそう。長かったと思うよ。
-当時のMUGENには移動式のDJブースがあったと聞いていますが。
A MUGENにもBYBLOSにもあったね。他には無かったんだけど、要はDJブースだけ動く、そういうお店。
-動くとは?
A DJブースがゴンドラみたいになってて。MUGENは地下1階と2階にフロアがあるお店だったんだけど、要は吹き抜けになってんの。各フロアのステージが。そこをアームに繋がれたゴンドラが行き来する感じかな。ブースの中にコントローラーがあって、外でもスタッフがコントロールしてる。具体的には「上下左右」っていう4つのペダルがあって、足で踏んだら上がったり下がったりして。セッティングが面倒な時はスタッフに動かしてもらうんだけど。
-そのゴンドラの正式名称は?
A 正式名称は……DJブース。
-(一同笑)
A 「宇宙船」とか呼ばれてたかな。球形の透明なアクリルがブースを覆ってる感じ。そこに座ってやらなきゃいけないんで。ミキサーがあってタンテがあって…宇宙船のコクピットみたいな。あと、床も強化ガラスで透明だから、上からも下からも見られてて。
-当時の客層はどうだったのでしょう?
A MUGENも色んな人が来てたけど、BYBLOSの方が幅広かったね。アーティストとかファッションデザイナーとか。来日したミュージシャンが武道館終わりに来たり、コシノジュンコさん・菊池武夫さん・三宅一生さんみたいな今の日本のファッションリーダーがいたり。
-錚々たるメンバーですね。そして1987年に六本木のJAVA JIVE(※6)へ。
A MUGENとBYBLOSが閉店した2年後ぐらいかな。2つの箱で10年以上やった後、俺の中ではやり切った感があって。やめとこうかとも思ったけど、JAVA JIVEができた場所は70年代後半から80年代にかけて、めちゃいいディスコがあった場所なんよね。例えばCASTLE(※7)。そこは六本木でも一番ハイソなディスコで。その次が玉椿(※8)(新宿ツバキハウスの2号店)かな。
(※6)JAVA JIVE
1988年、六本木に設立。ディスコブームの象徴と言われたスクエアビル(地下2階~地上10階までほとんどディスコだった雑居ビル)のなかに入っていた。カリブのリゾート地をイメージ店内は、フロアに砂浜を設置するなどユニークな造りだった。1990年代半ばに閉店。
(※7)CASTLE
1974年に六本木に設立。ディスコブームの象徴と言われたスクエアビルの地下1階に入っていた。ファッション界の社交場といったハイセンスな会員制ディスコで、黒大理石をふんだんに用いたラグジュアリーな内装だった。1978年に閉店。
(※8)玉椿
1981年に六本木に設立。ディスコブームの象徴と言われたスクエアビルの地下1階に入っていた。新宿ツバキハウスの2号店で、佐藤としひろプロデュース。
-オシャレな人たちの社交場のような。
A ニューウェーブとかパンクの時代にできたハコだったから。お客さんも最先端というか、めっちゃ尖ってて。ファッション業界の人が多かったかな。アパレル系とか美容師とか。そういう人たちが遊び始めたのが、その2つの箱だった。その後、同じ場所にJAVA JIVEができた時に「立場的にこなせるDJがいないから」とお願いされて。じゃあ、なんとかやってみましょうかと。それが88年ぐらいかな。
-JAVA JIVEの時代から、かける曲のジャンルも変わったと聞いています。心境の変化もあったのでしょうか?
A それまでロック、ソウル、ディスコとやってきたんだけど、JAVA JIVEの求めるワールドミュージック的な雰囲気は若いDJには作り出せないものだったから。選曲できないというか。だから、そういう役割を自分から買って出たというのもあったかな。あと、JAVA JIVEにはジャマイカのレゲエバンドが出てたんですよ。レゲエバンドがメインで、DJはダンスミュージック中心だったんだけど、当時ちょうど日本にワールドミュージックの波が来ていて。六本木のWAVE(※9)とかにラテンとかブラジルのアルバムやレコードがどんどんと入ってくる時代、ちょうどそんな時代だったんだよね。
-同時代的に。
A そうだね。MUGENではアメリカのファンクバンドを呼んで、JAVA JIVEではジャマイカのレゲエバンドを呼んで。バンドとDJが交代で、というMUGEN的な感覚は続けたまま、アメリカ以外のブラックミュージックのバンドを呼ぶと。
-お客さんは集まってたんですか?
A 意外と付いてきてたね。六本木のど真ん中にあって立地も良かったし、レコードじゃなくてライブで聞かせるというスタイルも新しかったと思う。
-お店の雰囲気はどんな感じだったのでしょう?
A イタリアのデザイナーが造ったハコだったから、ちょっと変わっていて。リゾート感覚というか。ブースは立ち上げたし、椅子もあったんだけど、足元が床じゃなくて全部砂なんよ。ダンスフロアだけは木で出来ていたけど、周りが全部砂だったから、結局砂まみれで。
-海の家みたいな。
A そうそう。それが地下にあって。カリブな感じでええんやけど、いかんせん砂だから。行った時と終わった時は全部掃除して、水を撒いて綺麗にしておいて始めるんだけど、最後はぐちゃぐちゃで。オープンの前に行ってホコリを払ったりもしてたけど、週末とかはとんでもないことになってた(笑)それで、JAVA JIVEでは普通にディスコとかハウスとかもかけつつ、ジャマイカのレゲエとかラテンのソカとかそういうのも混ぜて。音も設備も他のディスコとは一線を画してたと思う。
-とてもゴージャスなハコを想像しますが、時代の流れもあったのでしょうか?
A まあハコとかメンツでイメージを作ろうとした時代だったのかもしれない。ディスコ以降の。まあディスコの時代もそうだったんだけど、バブルの時代はお金をかけていたからね。会社も、業界自体も。要は見せ方に一番お金をかけていた時代。
-先ほどの「宇宙船(MUGEN)」とも繋がってくる話ですね。
A DJやDJブース、音質にお金をかけてという時代はCAVE以降からですよ。ちょうどディスコ文化からクラブ文化に移行する時期で、徐々にみんなが音とかブースにこだわり出したっていう。だんだんそういう方向に時代が流れていったね。クラブカルチャーが出てきたのもちょうどこの時代で。というのはバブルがその前後に弾けたので、ディスコがほとんど無くなってしまって。バブルが弾けてディスコが無くなったあとにクラブ文化ができていった。その集大成がCAVE(※10)とかGOLD(※11)とかYELLOW(※12)とかROOM(※13)とか……。
-そのディスコからクラブへの移行期、特に変わったなと思われた部分は?
A ハコ側がDJの視点をちゃんと取り入れるようになっていったかな。ブースの完璧さとか出音の感じとか。ニューヨークの文化も入ってきてたし、高橋透くんとかDJ Noriとか実際のニューヨークを体感して帰ってきた人たち、そういう人たちの声を尊重するようなハコがどんどんと増えていった気がする。
(※9)WAVE
1983年六本木にオープンした旧セゾングループの「音・映像」に特化した商業施設。地下1階から7階までミニシアター、レコード屋、喫茶店、本屋、雑貨屋、スタジオ等があり、ビル全体が様々な文化を発信する拠点となり、当時の六本木のイメージを一新した。特にレコードの品揃えが豊富で世界中の音楽が手に入るということで、文化人や音楽家などに高い支持を得た。六本木地区再開発に伴い、惜しまれながらも1999年に閉店。跡地は六本木ヒルズメトロハットになっている。
(※10)CAVE
1989年、渋谷区宇田川町に設立。村田大造プロデュース。国内のクラブカルチャーを牽引した伝説のハコ。ハウスだけでなくテクノ・ジャズ・ヒップホップと流れたジャンルは様々で、後に日本語ラップの発展にも大きく貢献。2000年に閉店。2001年、跡地にModuleが設立(*2014年閉店)
(※11)GOLD
1989年11月設立。東京芝浦にある7階建てのビルを丸ごとクラブにしたもので、インテリアデザイナーの佐藤篤氏とDJである高橋透がタッグを組み手がけたクラブ。高橋透が導入したこだわり抜かれた最新鋭のサウンドシステムは、それまで音にお金をかけることがなかった日本のディスコやクラブに衝撃を与えた。ピーク時には3000人が訪れた伝説のクラブ。
(※12)YELLOW
1991年12月設立。東京都西麻布で14年もの間クラブシーンをリードしてきた老舗クラブ。ディープ・ハウス、テクノ、プログレッシヴ・ハウスといったジャンルを得意とし、常にツボをついた個性的なパーティーで多くのオーディエンスを魅了してきた。また、世界のハウスDJが日本でプレイしたい場所の1つとしてyellowを挙げており、中でも最高級のサウンドシステムは海外でも高く評価され、世界のビックネームが歴代プレイしてきた伝説のクラブ。
(※13)ROOM
1992年、渋谷に設立。DJである沖野修也が手がけた老舗クラブ。20年以上にも渡って人気を持ち続けてきた隠れ家のようなクラブでは、ハウス、ジャズ、クロスオーバーやブレイクビーツをメインに各ジャンルのDJ、プロデューサーが質の高い曲を選曲。クラブ内はコンクリートの壁に囲まれたバーと真っ暗なダンスフロアの2つのエリアに分けられており、そこでは音楽関係者だけでなく様々なジャンルのクリエイターが集い、新たな文化の発信源として多くの人々が交友を交わしてきた。
DJ AGEISHIさん

DJ AGEISHIさん

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