アルコールよりも人を酔わせるクラブミュージック。
二度とは来ない熱い一夜のために
選ばれたDJによるハラショーな音楽を抜きにして、
クラブを語ることなんてできるはずがない。
今夜、アノムラから流させていただくのは「DJ AGEISHI」のストーリー。
日本のクラブシーンにおける金字塔であり
34時間、ミラーボールと地球がずっとまわる間も、
たったひとりでレコードをまわし、客を踊らせつづけた稀代のDJ。
「その瞬間の自分に任せたアドリブで曲を選ぶ」
クラブDJだけに与えられたスぺーシーな自由と挑戦へ、
常に身を投じてきたレジェンドの声に、今回は耳をかたむけたい。
-AGEISHIさんが音楽と出会った最初のきっかけから聞かせてください。
DJ AGEISHIさん(以下、A) きっかけはやっぱり洋楽に出会ってからかな。1960年代、中学生の頃ぐらいに向こうのポップスとか。ビートルズ
とかストーンズ 世代なんで、それに影響されて。あと、どちらかというとラジオ派だったんで、ラジオで洋楽を聞いてました。 -ラジオはどんな番組を?
A 初期の深夜放送と言われているもの。オールナイトニッポン
の最初のやつとか。夜に宿題しながらラジオ聴いてるみたいな。当時はそれしかないからね。テレビも洋楽やってる番組とかなかったし。 -同級生で洋楽好きな人とかは?
A 一部いたけどね。でもやっぱり情報はラジオ。雑誌も遅かったんで。深夜放送とFEN(ベースキャンプのラジオ)とか。それは完全なアメリカのヒットチャートをやるから情報も速かった。
-DJへの憧れも入りはラジオから?
A そうそう。ラジオ育ちなんで、ディスクジョッキー(DJ)に憧れてたの。でも、日本のラジオDJって喋る人やん。喋って、選曲はリクエストとか。それが海外と違うところ。アメリカでは全部DJがやってたからね。あと、日本のラジオでDJになりたかったら、大卒でアナウンサーの試験を受けないとそういう職種には就かれへんって聞いて。俺勉強嫌いだから。そんなことまですんのかいって(笑)
-なるほど(笑) バイオグラフィーには73年に「東京赤坂MUGEN(当時のゴーゴークラブ)
でDJとして活動を始める」とありますが。A 知り合いの先輩から「赤坂にDJを置いているお店がある」っていう情報を聞いて。当時は今みたいにDJっていう職業もアタリマエじゃなかったし、お店にDJがいるってどういうこと?って。そう思ってたら「興味あるなら行ってみたら」って言われたのがきっかけ。
-当時のDJってどんな職業だったんでしょう?
A 今でいう黒服かな。面接のときに「君は何をやりたいの?」って聞かれて、DJやりますって言ったら「え?」みたいな。「バーテンとかウエイターとかそういう職種は採れるけど、DJだけでは採ってない」って言われて。
-専門職ではなかった。
A DJブースがあって、ちょっと片手間に流す感じかな。あと、当時のMUGENはバンドのライブがメインだったの。ダンスミュージックバンドがメインで、その合間がDJ。バンドやってDJやってみたいな。要はDJだけの店じゃないんで、ホールもやりながらバンドの転換時間にDJをやってましたね。
-お客さんは踊っていたんですか?
A 踊ってもいいし、飲んでもいいし、音楽を聞いてもいいってスタイル。60年代の後半とかに、今のクラブシーンの原型みたいなお店がもうあったの。俺らより上の世代の人たちが造った社交ダンス的なホールが。そこが段々MUGENとかのスタイルに変わっていく時代だったかな。60年代にキャバレーとかゴーゴークラブだった場所、そういう場所が日本のダンスミュージックのルーツだったの。
-MUGENではどんな曲をかけていたんですか?
A もちろん洋楽専門で、あとMUGENの場合はバンドライブがメインだったから。バンドで踊って、DJはブレイクみたいな。だから、どっちかというとソウルやロック、ファンク、ブラックミュージックが中心だったかな。
-そして75年に赤坂BYBLOS
へと活躍の場所を移された、と。
A DJの先輩が「もし良かったらBYBLOSでもDJやらへんか」って。BYBLOSは今のクラブスタイルと一緒で、完全にDJがメインだったから。
-BYBLOS では10年間ほど。
A そうそう。長かったと思うよ。
-当時のMUGENには移動式のDJブースがあったと聞いていますが。
A MUGENにもBYBLOSにもあったね。他には無かったんだけど、要はDJブースだけ動く、そういうお店。
-動くとは?
A DJブースがゴンドラみたいになってて。MUGENは地下1階と2階にフロアがあるお店だったんだけど、要は吹き抜けになってんの。各フロアのステージが。そこをアームに繋がれたゴンドラが行き来する感じかな。ブースの中にコントローラーがあって、外でもスタッフがコントロールしてる。具体的には「上下左右」っていう4つのペダルがあって、足で踏んだら上がったり下がったりして。セッティングが面倒な時はスタッフに動かしてもらうんだけど。
-そのゴンドラの正式名称は?
A 正式名称は……DJブース。
-(一同笑)
A 「宇宙船」とか呼ばれてたかな。球形の透明なアクリルがブースを覆ってる感じ。そこに座ってやらなきゃいけないんで。ミキサーがあってタンテがあって…宇宙船のコクピットみたいな。あと、床も強化ガラスで透明だから、上からも下からも見られてて。
-当時の客層はどうだったのでしょう?
A MUGENも色んな人が来てたけど、BYBLOSの方が幅広かったね。アーティストとかファッションデザイナーとか。来日したミュージシャンが武道館終わりに来たり、コシノジュンコさん・菊池武夫さん・三宅一生さんみたいな今の日本のファッションリーダーがいたり。
-錚々たるメンバーですね。そして1987年に六本木のJAVA JIVE
へ。A MUGENとBYBLOSが閉店した2年後ぐらいかな。2つの箱で10年以上やった後、俺の中ではやり切った感があって。やめとこうかとも思ったけど、JAVA JIVEができた場所は70年代後半から80年代にかけて、めちゃいいディスコがあった場所なんよね。例えばCASTLE
。そこは六本木でも一番ハイソなディスコで。その次が玉椿 (新宿ツバキハウスの2号店)かな。
-オシャレな人たちの社交場のような。
A ニューウェーブとかパンクの時代にできたハコだったから。お客さんも最先端というか、めっちゃ尖ってて。ファッション業界の人が多かったかな。アパレル系とか美容師とか。そういう人たちが遊び始めたのが、その2つの箱だった。その後、同じ場所にJAVA JIVEができた時に「立場的にこなせるDJがいないから」とお願いされて。じゃあ、なんとかやってみましょうかと。それが88年ぐらいかな。
-JAVA JIVEの時代から、かける曲のジャンルも変わったと聞いています。心境の変化もあったのでしょうか?
A それまでロック、ソウル、ディスコとやってきたんだけど、JAVA JIVEの求めるワールドミュージック的な雰囲気は若いDJには作り出せないものだったから。選曲できないというか。だから、そういう役割を自分から買って出たというのもあったかな。あと、JAVA JIVEにはジャマイカのレゲエバンドが出てたんですよ。レゲエバンドがメインで、DJはダンスミュージック中心だったんだけど、当時ちょうど日本にワールドミュージックの波が来ていて。六本木のWAVE
とかにラテンとかブラジルのアルバムやレコードがどんどんと入ってくる時代、ちょうどそんな時代だったんだよね。 -同時代的に。
A そうだね。MUGENではアメリカのファンクバンドを呼んで、JAVA JIVEではジャマイカのレゲエバンドを呼んで。バンドとDJが交代で、というMUGEN的な感覚は続けたまま、アメリカ以外のブラックミュージックのバンドを呼ぶと。
-お客さんは集まってたんですか?
A 意外と付いてきてたね。六本木のど真ん中にあって立地も良かったし、レコードじゃなくてライブで聞かせるというスタイルも新しかったと思う。
-お店の雰囲気はどんな感じだったのでしょう?
A イタリアのデザイナーが造ったハコだったから、ちょっと変わっていて。リゾート感覚というか。ブースは立ち上げたし、椅子もあったんだけど、足元が床じゃなくて全部砂なんよ。ダンスフロアだけは木で出来ていたけど、周りが全部砂だったから、結局砂まみれで。
-海の家みたいな。
A そうそう。それが地下にあって。カリブな感じでええんやけど、いかんせん砂だから。行った時と終わった時は全部掃除して、水を撒いて綺麗にしておいて始めるんだけど、最後はぐちゃぐちゃで。オープンの前に行ってホコリを払ったりもしてたけど、週末とかはとんでもないことになってた(笑)それで、JAVA JIVEでは普通にディスコとかハウスとかもかけつつ、ジャマイカのレゲエとかラテンのソカとかそういうのも混ぜて。音も設備も他のディスコとは一線を画してたと思う。
-とてもゴージャスなハコを想像しますが、時代の流れもあったのでしょうか?
A まあハコとかメンツでイメージを作ろうとした時代だったのかもしれない。ディスコ以降の。まあディスコの時代もそうだったんだけど、バブルの時代はお金をかけていたからね。会社も、業界自体も。要は見せ方に一番お金をかけていた時代。
-先ほどの「宇宙船(MUGEN)」とも繋がってくる話ですね。
A DJやDJブース、音質にお金をかけてという時代はCAVE以降からですよ。ちょうどディスコ文化からクラブ文化に移行する時期で、徐々にみんなが音とかブースにこだわり出したっていう。だんだんそういう方向に時代が流れていったね。クラブカルチャーが出てきたのもちょうどこの時代で。というのはバブルがその前後に弾けたので、ディスコがほとんど無くなってしまって。バブルが弾けてディスコが無くなったあとにクラブ文化ができていった。その集大成がCAVE
とかGOLD とかYELLOW とかROOM とか……。 -そのディスコからクラブへの移行期、特に変わったなと思われた部分は?
A ハコ側がDJの視点をちゃんと取り入れるようになっていったかな。ブースの完璧さとか出音の感じとか。ニューヨークの文化も入ってきてたし、高橋透くんとかDJ Noriとか実際のニューヨークを体感して帰ってきた人たち、そういう人たちの声を尊重するようなハコがどんどんと増えていった気がする。
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