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マレーシア • マラッカ州 •
illustrated by yoko yamamoto(螺鈿細工+漆画)

Let's go anywhere - Japan is not the whole world.Interview with Ex JICA employee Mr. Izumi Yamamoto
Introduction

今から約50年前。海外に憧れた一人の青年がいた。
時代は高度経済成長期。多くの日本人が欧米を意識する中、彼の目はアジアを見ていた。

韓国、台湾、ロシア、タイ、インド、そして戦渦のベトナム。
各地を自分の足で歩いた後、青年は“アジアのスペシャリスト”を目指して国際協力の仕事に就いた。

現地で見た人々の暮らし、運命の女性との出会い、退職後の海外での生活……。
常夏の国、マレーシアから豊潤な声をお届けします。

Interviewee profile
山本泉

1951年静岡県生まれ。富士山麓で育つ。上智大学在学中からアジアを訪ね見聞を広める。

1975年JICAに就職。1990年JICA退職、フリーランスとなりJICAプロジェクト調整員として東南アジア諸国に派遣される。2011年リタイア。2012年マレーシアのマラッカに妻と移住。

アジアへ!

To Asia!

憧れた海外 

Longing for foreign countries

―泉さんは大学卒業後にJICA(※1)で国際協力の仕事に就いたわけですが、そこに至るまでにはどのような青春時代があったのでしょうか?
山本 泉さん(以下I) 私の高校時代(1960年代後半)に、日本は明治100年の節目を迎えました。メキシコ五輪のサッカーで日本が銅メダルを取ったりして、あの頃の日本の世相は明るく希望が膨らんでいましたね。
 
海外への憧れが強く、横浜の大桟橋の外国客船に潜入して旅立ちたい衝動に駆られたことがあります。その頃長姉がアメリカに嫁ぎ、父親が欧州教育事情視察に出たりした家庭環境がありました。
それと、家がクリスチャンで高校までは日曜礼拝を欠かしませんでした。
―10代の頃から海外への興味があったんですね。大学はどのようなところへ?
(※1)JICA(ジャイカ)
独立行政法人 国際協力機構。日本の政府開発援助を一元的に行う機関として、開発途上国への国際協力を行う。技術協力/資金協力/ボランティア派遣(ex.青年海外協力隊)など。
静岡県小山町

静岡県小山町

I 上智大学の英文科です。欧米志向の校風に反発して、アジア志向が強まりました。
―欧米志向とアジア志向……具体的にどのようなものでしょう?
I カトリック系の大学なので西洋人の教授の感化もあって、例えば学生の留学先などは欧米諸国を選ぶ人がほとんどだったんです。元々そういうスクールカラーなので逆らうのはドンキホーテ的ですが、私はあえてアジアへ旅行したり、AA諸国(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)について学んだりしました。アラビア語の夜の講座に通ったこともあります。
これからの時代は西洋的なものから東洋的なものへ、物から心に価値観が移っていくのだと肌で感じていました。
―後にアジアで働くことになる泉さんに通ずるものがその頃に芽生えたんですね。当時の日本の若者は、アジアをどう捉えていたと思われますか?
I 当時(1970年代)は戦後四半世紀と言われ、親の世代の戦時中の考え方がそのまま若者に伝わっていたと思います。中国大陸や朝鮮半島の人たちに偏見がありましたし、東南アジアに対しても未開で遅れた野蛮な国というイメージを多くの日本人が持っていたと思います。
―40~50年前はそういう考えが根強かったのですね。
I 戦後は欧米に追い付け追い越せのムード中、メディアのアジアについての報道も限られていました。それは国民が欧米に追随するムードづくりだったと思います。
だから私は親世代の受け売りから離れて、「自分の目で見て考えてみたい」という気持ちが強くなったんです。「アジア・ウォッチャー」になると嘯(うそぶ)いていたので、学友からは好奇の目で見られていたようです。
山本泉さん

山本泉さん

―周囲に思想や行動が同じような人はいましたか?
I 少ないけれどいました。インド旅行から戻ったヒッピー風の上級生がいましたね。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のリーダーの作家、小
田実に心酔して毎回デモに参加している学友もいました。
日中国交回復の前でしたけど、中国共産党を信奉して学内で集会を開催したり、実際に訪中団のメンバーになった寮生もいます。当時は香港・広州経由で列車でしか北京に入れなかったので羨ましかったですよ。
―今の日本では中国人観光客が社会現象にまでなっていますが、数十年前は旅行もままならなかったんですね。
I 卒論では米国人作家ヘンリー・デビット・ソローの思索の跡を追い、彼の著作『ウォールデン 森の生活』(※2)、『市民的不服従』(※3)に出会いました。私の今の生き方には、どこかソローの哲学が繋がっているように感じています。
(※2)『ウォールデン 森の生活』
著者の2年に渡る自給自足の生活の回想録。アメリカノンフィクション文学の傑作。
(※3)『市民的不服従』
良心が不正とみなす国家の行為に対して公然と違反する行動「市民的不服従」という語の起源となった論文。

アジア・ウォッチャーとしての旅 

Travelling as an Asian watcher

―「アジア・ウォッチャー」として、どのようなところへ行かれたのですか?
I 大学1年の時に大阪万博が開催されて1週間会場へ通いました。各国のパビリオンを訪問して、その時世界に目が開かれたんです。2年生の春には米国施政権下にある沖縄へ船で行きました。
―観光旅行……というわけではなさそうですね?
I ええ。将来の仕事はジャーナリストだと漠然と考えていて、その為に専門的なテーマを持とうと思っていました。
当時、ベトナム反戦の機運が欧米から日本に広がってきていて、私はアジアの紛争地の歴史的背景などを調べていたんです。沖縄の本は何冊か読みましたけど、現地に行かなければという使命感に燃えていました。
―反戦運動に関心があったのですね。
I 高校まで政治に興味は無かったのですが、大学に入ると学園紛争が全国各地で燃え上がっていて反体制の気持ちが強くなりました。ただ、赤軍などの過激派は支持しませんでしたし、デモ参加などの行動もとりませんでした。一つには群れるのが嫌いだったから、一つにはバイトで忙しかったからです。
今年10月にボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞しましたが、彼の歌が流行った時代でしたね。
―なるほど。沖縄は実際に行かれてみてどうでしたか?
I 外側から米軍キャンプを見るだけでしたけど、コザ暴動(※4)直後の現地の空気に触れることは貴重な体験でした。沖縄の人々が被った悲惨な歴史を知って、反戦の思いを新たにしました。
 
車は左ハンドル、通貨は米ドルで、米軍関連の仕事をする人が今より多い時代でした。
(※4)コザ暴動
米兵が起こした交通事故をきっかけに、数千人の人々が米軍の車両・施設を焼き討ちした。(1970年12月)

地図を広げると、ドキドキして夜も眠れなかった 

Looking at map of the world, I was too excited to sleep

―沖縄の他にはどこへ?
I 同じ年の夏に韓国の板門店まで行きました。深夜0時の外出禁止令や長髪の男子は鋏で断髪されるなど、反共教育(反共産主義の教育)で緊迫感の続く時代でした。
一方で、街で出会った大学生の家に招かれたり、観光案内してもらったりした楽しい思い出があります。
 
冬には学友の台湾人の家族を訪ねました。ちょうど国連で中国代表権が中華民国から中華人民共和国に変わった直後で、台湾の人々が日本に見捨てないでくれと哀訴している気持ちが強く出ていました。
 
翌夏にはハバロフスク号に乗ってシベリアへ行き、初めて社会主義国の生活ぶりを知りました。五木寛之の本を読んでシベリア鉄道に憧れた時期でしたね。
―興味を持ったらとにかく現地へ、という感じですね。
I 次の春にはインドを2ヶ月間ヒッピー旅行しました。ビートルズがインド入域とのニュースに触発されての旅でしたけど、この旅の原体験があって、後の国際協力の就職に繋がったのだと思います。
―というと?
I 社会の底辺に暮らす人々の実態を知って、途上国の社会経済発展に貢献できる仕事に就きたいと思ったのです。
この旅の途中にタイにも立ち寄って日貨排斥運動(※5)の余韻の残ったバンコクを歩き、日本と東南アジアの微妙な関係を現地で感じ取りました。
 
4年生を留年した年にはベトナムにも行きました。
―本当に色々と行かれたんですね。
I 学生時代は学業よりもアルバイトを優先して、旅費を貯めては次の旅行計画を練っていましたね。地図を広げると夢が膨らみ、ドキドキして夜も眠れなかったことを覚えています。
(※5)日貨排斥運動
日本商品不買運動。日本の急速な経済進出に対する批判運動。
バンコクのカオサン通り(2015年)

バンコクのカオサン通り(2015年)

ベトナム、運命の旅 

Journey of a destiny to Vietnam

―そうやって行った先がベトナムだったんですね。
I そうです。1974年の春休みに、学生時代最後の旅行ということで行きました。目的地はサイゴン(現ホーチミン市)です。
きっかけは司馬遼太郎の『人間の集団について』(※6)を読んだことです。まだベトナム戦争(※7)の最中だったので、自分の生死にかかわる場面を想定して、心配かけまいと誰にも言わずに出かけました。
―こっそり準備して?
(※6)『人間の集団について―ベトナムから考える』
戦中の南ベトナムを歩いた著者が人間そのものの問題に切り込んだ思想書。
(※7)ベトナム戦争
米国率いる自由主義陣営が支援する南ベトナムと、ソ連・中国の共産主義陣営が支援する北ベトナムが対立する構図の戦争。
I はい。出発の際はベッドに枕を潜らせカバーを掛けて寝ているように見せかけて、日の出前に塀を乗り越えて出ていきました。香港に到着して初めて姉へ手紙を送り、目的地はベトナムだと伝えました。
―戦渦のベトナム、行くのに恐怖はなかったのでしょうか。
I 私が訪問した時期はパリ協定により米軍が南ベトナムから撤兵した10ヶ月後で、南北のベトナム民族同士の戦闘局面に入っていました。
渡航の3ヶ月前から新聞の外信面を毎日読んで、サイゴンの半径100キロ以内での戦闘は報じられていないことが分かり、危険度は低いと判断しました。アジアウォッチング集大成の旅と位置づけて意気軒高でした。
―行かれてみてどうでしたか?
I 空港に到着するとヌクマム(魚醤)の臭いがしました。初めてのベトナムだったのに妙に懐かしい臭いでした。
 
サイゴンの中心部はベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の侵入を防ぐ政府軍の有刺鉄線付きバリケードが敷かれていて、そこを通る時いつも、戦時下にいることを実感しましたね。
―現地ではホテルに泊まったのですか?
I 向こうで知り合った華僑(※8)の家に招かれました。日本人というだけの理由で歓待してくれて、その家族の繋がりで華僑の建物に1ヶ月間滞在しました。彼らは一族が世界各地に分散して暮らしていて絆が強いのだと知りました。
(※8)華僑
中国国籍を保持したまま海外に居住している中国人。
―チャイナタウンは世界中にありますよね。怖い思いはされなかったのでしょうか。
I 車で出かけた際は幾つかの政府軍の検問所で止められましたね。昼は普通の市民で、夜は反政府ゲリラとして活動する人々がいるということで通行人をチェックしていました。
―緊張感がありますね……。人々はどのように暮らしていましたか?
I 映画は最大の娯楽でしたよ。親しくなったベトナム人の家族に連れられて香港映画を観に行った時、スクリーンに感情移入して憤りや嘆きのシーンに観客が一斉にチェチェチェと舌打ちを始めたのには驚きました。日本の「座頭市」も人気があって、軒先で子供たちが勝新太郎の抜刀術を真似ていました。
あと、日本製のオートバイも街中で見かけました。スズキもカワサキも全て「ホンダ」と呼ばれていました。
―戦中でもそういった日常があったんですね。
I 戦争末期であることを察知した軍人や官僚は一層腐敗に走り、賄賂が横行していましたね。金持ちの家の息子は金で徴兵が免除されますが、そうでない家庭の子供は戦場に送られます。
私はそういう政府が嫌いで、心情的にはいつも庶民の味方でした。
―戦地に向かう若者とも話されたのですか?
I はい。ベトナム滞在で感じたことは詩にしました。青臭くて恥ずかしいですが、ベトナム戦争中の体験記ということで読んでいただければ幸いです。
―特に印象に残った出来事はありますか?
I 日本留学を希望している女性と出会って、何とか実現できるようにサイゴンの日本大使館へ一緒に渡航相談に行きました。
渡航の見通しが立たないまま私は帰国してしまいましたが、翌月日本に着いたと電話が入った時は驚きと喜びが交錯しました。数年後に彼女と結婚して、それが今の家内です。これは自分史の中でエポックメイキングな出来事となりました。
今となってみれば、人生の伴侶となる女性に出会うことにもなる運命的な旅でした。
『僕は想ふ 1974 越南日記』

『僕は想ふ 1974 越南日記』

泉さんと奥さん(1975年)

泉さんと奥さん(1975年)

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