place
池袋駅
日本 • 東京都 • 豊島区

Introduction

整えようとするとはみ出してしまうもの、

不確かさの中でこそ鮮やかに立ち上がる音や風景や手応え、

書き手の言葉を辿る時、しばしば呼び起こされるのは、そうしたものの感触だ。

『寝相』、『愛と人生』、『死んでいない者』の作者、滝口悠生。

そして、この度はもう一人、小説家の横に座っている人物が。

「俺の余暇のために書いてくれていると思っていた」と呟くのは

ミュージシャンでカレー愛好家の、幸せ一郎。

十代で滝口悠生と出会い、デビュー以前から滝口作品を読み続けてきた。

にぎわう週末の居酒屋で、たゆたう二つの声は小説家の過去と現在を巡る。

Interviewee profile
滝口悠生

2011年に「楽器」で小説家デビュー。デビュー以前にはフリーペーパーを自作して小説を書いていたことも。
2015年『愛と人生』で第37回野間文芸新人賞、2016年1月『死んでいない者』で第154回芥川龍之介賞を受賞。2015年秋、勤めていた輸入食品店を辞めて専業作家に。2016年には複数の文芸誌で短編小説を発表した。

twitter

幸せ一郎

インド、ネパール、スリランカ、パキスタン、バングラデシュ辺りのカレーにハマり、国内で食べ歩き活動中。また他人の家でカレーを作り、食べさせる活動も不定期に行っている。

instagram

マーキー・ムーン的な

-滝口さんにとっての幽霊とは?
T あ、それ面白い。そもそも、なんでその質問を思いついたんですか?
-作品を読ませていただいた時に、登場人物がオカルト研究会に所属していたり(『楽器』)幽霊を見たり(『寝相』(※1))といった設定が印象的で。異界というか、今、現在、生きていて実存しているものと、実存していないものについてどう思われているのかなと。
(※1)『寝相』
『新潮』 2013年10月号 掲載前年にがんを患い術後療養中の老人、竹春とその孫娘なつめの同居生活を描く。本作を含む第一作品集『寝相』(「わたしの小春日和」「楽器」収録)は第36回野間文芸新人賞候補となった。
T 僕が普段、生活していて、幽霊を見たり、異界的なものに転げ落ちたりっていうことがあるわけではないんです。そういうものがあるから、そういうものを書くわけではなくて、なんか書いてるうちに、そういうものが書かれていくっていうか、書いてしまうというか。書く内容によって、オカルト的と思われるようなこととか、幽霊みたいなこと、そういうモチーフが出てくるんですよ。
 
自分でも書く前からそういうものを書こうと思っていたわけではなくて、書き進めていく中で、そういうものが勝手に出てくるようなところがあって。だから、それは僕のプライベートなこと、パーソナルな出来事から出てくるものじゃない。どちらかというと、書く作業に属する。書き方は作家によってそれぞれ違うから、書く作業全般ではないと思うんですけど、少なくとも僕が選んでいる書き方、書く時に考えることとか、その時のフォームみたいなものが、幽霊や異界みたいなものを呼び寄せたり、そういうものを必要とするということなんだと思います。
-なるほど。
T その質問が面白いって言ったのは、書くことによって出て来たものの方が「なんで書くのか」といった話に自然と遡上していくからなんですよ。いきなり「なぜ小説を書くのか」って言われてもどう答えたらいいか分かんないんだけど、そういうことを聞かれると「なぜ幽霊みたいなものが出るのか」「なぜそういうものを書きがちなのか」ということを考える。そうすると「これはこういう書き手、こういう作品とも似てるかもしれない」とか、自分が現実というものをどんな風に書こうとしているのかという問題につながってくる。
 
 幽霊は出さない、現実らしさを守って書く。そういう書き方だってあるわけだけど、そこを自分は破ってもいいって思っているのが分かるわけで。それはなんでなのかなとか、書くっていうことと現実ってことの関わり合いとかぶつかり合いみたいなことを考える。
-もうひとつ気になったのが、登場人物に社会から一旦離脱したような人物が多いこと。勤めていた職場をやめたり、一度入った家族を抜けたり、そういった設定についてなのですが。
T たしかに一つの傾向としてありますね。 それはたぶん、小説を書き始める時に、いろんな出発の仕方があると思うんですけど、僕は、語り手がいて、その人が語っていくっていう最初のところの、その不自然さが気になるんです。
-不自然さですか。
T 「私」なら「私」っていう人が出てきて、「私」っていうのはこれこれこういう状況で、こういう場所にいて、町から「誰誰さん」が来た、みたいなことをテキストの上では語っているわけですよ。でも、それって現実にすり合わせたら異常な状態じゃないですか。自分が見ているものとか、自分の状況を他者にも分かる言葉で語り始めるっていうのは。異常というか、まあ、誰もがいつもやっていることではないですよね。だから、ある程度その語り手が何かを語り出すような環境や出来事を語り出す前に作るんだと思います。
 
 何か大きい事件があるかないかじゃなくて、やっぱり、小説がずっとなくならずに読まれ続けているっていうのは、人々の現実の中に小説のナレーション、小説で語られることへのシンパシーっていうのが生きているからだと思う。つまり、人は普通に生活していて、たとえば、辛いこととか、悲しいことがあった時に、どこか小説的なモードでその状況を確かめようとすることがあるのだと思う。その状況の自分を、自分のことなんだけど、どこか別のところから言葉にしようとしてみたり、眺めてみようとする瞬間がある。
-シンパシーのポイントを探るような。
T そういうもの(シンパシー)があるから小説っていうものが有効なんだけど、でも、そういう働きが人に残っているからって、訳もなく何かを語り出すっていうのはやはり不自然な気がしてしまう。だから、何かしらのその人が語り出す動機とかきっかけ、はずみになるような状況や事態をその語り手が与えて、そうやってナレーションが始まることが多いんだと思います。
 
大きな出来事である必要はなくて、ただ久しぶりに昔の知り合いの誰かと会ったということでも、その再会がなければ思い出さない出来事とか、その人に会ったことによって浮かんで来ることがいろいろあるわけです。だから小さなきっかけ、誰かと会って、何かを思い出すってことも、すごく小説的なことだと思う。そういう時って、その人の中で小説の語りに近いようなことが起こるんじゃないかと。
-実際に体験されたことを書くことが多いですか?
T 割と書きますが、全部そのまま書くわけではないですね。全く体験してないことっていうのはなかなか書きづらいので、どの作品に関しても自分の実体験がゼロですっていうのはない。必ずちょっと実体験が入っていて、とはいえ、ある限られた場面でも実体験だけで書くっていうことは結構難しい。なんか説明が難しいんですが。

滝口悠生さん photo by 藤田和美

I 実体験だけだと幽霊とか出せないもんね。
T 出せないね。それに、すごい重たくなっちゃうんですよ。テキストが重たくなる。その重たさっていうのは、言葉の選び方のレベルなのか、単に書き手と文章の関係性のものなのか、ちょっと分からないんだけど。感覚として書いてるものがグッと動く感じが大事なんです。ちょっと動きがある、動きを感じるっていうのが大事で、それがあると読んでいても面白いし、書いていても手応えがある。そして、その動きっていうのはやっぱりフィクションが作る。フィクションが働くと、そういう動きみたいなものが出るんです。
-フィクションが動きをつくる。
T たとえば、自分が結構しっかり覚えている体験をここで使ってみようと思って書くとする。そんな時はあんまりうまくいかない。自分が見たものとか覚えていることが多過ぎて、フィクションの要素がうまく入ってこないというか、入る隙間がつくれないというか。知っていることを書き過ぎていて、書くことによって出てくるはずの、さっきの幽霊みたいなのが呼び寄せられて来ない。幽霊に限らず、現実的な描写とかでも同じなんですけど、書いていることによってそこにフィクショナルなものが求められ、呼び寄せられて、入り込む、刻まれてく、みたいのがある。そうすると動きが出るんだけど、実体験をそのまま書いているとそういうものが入ってこなくて、知っていること、覚えていることだけで書いてしまう。そうするとテキストとして動きのないものになる。量としてすごい書けた、と思っても、読み返してみるとつまらない。それで、結局で使えないからあとで書き直しになる。
-なるほど。
T これは人によっても違うんでしょうけどね。私小説なんかは全然別の書き方かもしれない。でも、僕の感覚として、体験をもとにした部分とか、単純に知っている土地とか町のことを書く時には、その加減っていうのは結構気をつける。知ってるからなんでもかんでも書くと、また別の知ってることがどんどん付いて来てしまう。どこまでやるのか加減が難しい。
I となると、悠生の作品の雰囲気は非現実の世界を挟まないと出て来ないの?
T うーん、非現実の世界が必要な訳ではない。
I そうなんだ。

幸せ一郎さん photo by 藤田和美

T 自然とそうなっちゃうだけで、あんまりそればっかになっちゃってもよくないから。例えば、幽霊じゃなくても、普通に駅前の景色とかを書いていてもそうなんだけど、知っている場所を書いてる時にそれを今誰かが見ているものとして書くのか、誰かが思い出している景色として書くのか、それとも、誰かというよりもっと誰のものでもない地図みたいな情報として書くのか、っていう、色んな選択肢があるわけじゃないですか。それをどう組み合わせるのか、どれを選ぶかってことによって文章の質感が全く変わってくる。そこで何を選ぶかなんだけど、なぜそれを選ぶかというところに、こう、何かしらの切実さが必要だと思うんです。
―滝口さんの作品を読んでいると、ある結末に向かって動いていくというところからは外れて書かれているのかなと思ったのですが。
T 意図的に外れていくところもあるし、結末らしいものに向かおうと思っても、たぶん、途中で飽きて外れていっちゃう。「物語的には」とか「クライマックス」とかっていうものは、まあどうでもいいと思ってます。それは、さっきの旅行の話と同じで、目的地みたいなものは動き出すために必要だとしても、そこに行かなくても全然かまわない(笑)
-作品の終わりはどのように決めていますか?
T なんとなく満足しているので、そんなに悩まないでいつも終わりますね。「ああ、もう、これでいいな」って。物語的なクライマックスはまったく迎えてないんですけど、何かしらのカタルシスを迎えてる感じはある。さっきの、「博物館閉まってた!」みたいな。
I そこからまた「ここで締まった」と思わせながら「もう一回締める」みたいなやり方もあるじゃない。
T もう一回締める?
I 「マーキームーン(※2)」的な。「まだあるんかい!」みたいな。
(※2)マーキームーン
ニューヨークパンクのバンド、televisionの同名アルバム「marquee moon」の収録曲。
T 「マーキームーン」ね(笑) でも、小説の終わり方としてそれはけっこう難しいと思う。小説ってさ、能動的に読まないといけないから「もう一回始まった」というよりも「もう一回読むのかよ」ってなるでしょ。それだとちょっとしらけるんじゃないかな。
I いいと思うけどな、俺は。
T それより、ちょっと感覚的なものだけど、小説って「終わったと思ったらもう一回始まる」みたいなものより「最後をもっと手前で切る」っていう方が難しいし、でも効果的だと思う。他の人の作品を読んでても、終わり方に凄く満足する作品、この終わり方はいいなー、って思えるものってほとんどないんですよ。終わり方っていうのは最後の一文とか、最後の方の文章っていう意味で、これは完全に好みの問題なんだけど「この最後の一文とか二文がなければもっといいのに」って思うことが読んでいて結構ある。
I ちょっと最後にカッコつけちゃったなって思っちゃう?
T そうそう。勝手に格好がついちゃうんだと思うんだけどね。それに抵抗したい。映画とかでも、観ながら「ここでバサッと終わったらすごくいいのにな」って思うことがあって、でも大抵は終わりらしい終わり方で終わる。何年か前にキアロスタミが撮った「ライク・サムワン・イン・ラブ」って作品の終わり方はバサッと終わって素晴らしかったです。ここで終わったらいいな、と思ったところでほんとに終わった。小説もあんなふうに終わらせたい。バサって終わらせるのは難しいと思うんですよ。すごい乱暴だし「えっ?」てなるし。でも、その面白さとか良さとかいうのもある。

アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編

I 最後っぽくしたくないんだ。
T 最後っぽくしてしまう癖みたいなものが誰にでもあるのかもしれなくて。
I でも悠生の小説も結構終わっている感はあるんだけど。
T だからもっと乱暴にしたい。
I もっとブチって切った感じがいいんでしょ?
T そう。人に切ってほしいぐらいだよ。
conclusion

滝口悠生には独特のゆるさがある。学生時代からのご友人も交えて話を伺うことで、そうした一面を窺い知ることができたように思う。
「小説との出会いは?」という質問に対し、彼は「ハッキリしたものはない」と答えた。
 
-男か、女か。
-危険か、安全か。
-日本人か、外国人か。
-死んでいるのか、死んでいないのか。
 
日々生活していると、我々は様々な場面で明確な答えを見聞きするし、また要求もされる。
はっきりと何かを言うことは、小さな嘘をつくことでもある。
彼は作品の中で、幽霊や奇妙な人々、不思議な現象を描く。
それは、言葉の隙間に埋もれていってしまう「ぼやんとした何か」を、そのままそっと掬い上げる行為ではないだろうか。
 
-「今後の展望は?」という質問に対し、ある大阪の古書店主は「ぼんやりとしか言いようがない」と答えた。
曖昧だからこそ、確かなこともある。
 

【関連記事】
漂流する古本屋。アオツキ書房 金本武志さんインタビュー。