T 僕が普段、生活していて、幽霊を見たり、異界的なものに転げ落ちたりっていうことがあるわけではないんです。そういうものがあるから、そういうものを書くわけではなくて、なんか書いてるうちに、そういうものが書かれていくっていうか、書いてしまうというか。書く内容によって、オカルト的と思われるようなこととか、幽霊みたいなこと、そういうモチーフが出てくるんですよ。
T その質問が面白いって言ったのは、書くことによって出て来たものの方が「なんで書くのか」といった話に自然と遡上していくからなんですよ。いきなり「なぜ小説を書くのか」って言われてもどう答えたらいいか分かんないんだけど、そういうことを聞かれると「なぜ幽霊みたいなものが出るのか」「なぜそういうものを書きがちなのか」ということを考える。そうすると「これはこういう書き手、こういう作品とも似てるかもしれない」とか、自分が現実というものをどんな風に書こうとしているのかという問題につながってくる。
T たしかに一つの傾向としてありますね。 それはたぶん、小説を書き始める時に、いろんな出発の仕方があると思うんですけど、僕は、語り手がいて、その人が語っていくっていう最初のところの、その不自然さが気になるんです。
-不自然さですか。
T 「私」なら「私」っていう人が出てきて、「私」っていうのはこれこれこういう状況で、こういう場所にいて、町から「誰誰さん」が来た、みたいなことをテキストの上では語っているわけですよ。でも、それって現実にすり合わせたら異常な状態じゃないですか。自分が見ているものとか、自分の状況を他者にも分かる言葉で語り始めるっていうのは。異常というか、まあ、誰もがいつもやっていることではないですよね。だから、ある程度その語り手が何かを語り出すような環境や出来事を語り出す前に作るんだと思います。
T そういうもの(シンパシー)があるから小説っていうものが有効なんだけど、でも、そういう働きが人に残っているからって、訳もなく何かを語り出すっていうのはやはり不自然な気がしてしまう。だから、何かしらのその人が語り出す動機とかきっかけ、はずみになるような状況や事態をその語り手が与えて、そうやってナレーションが始まることが多いんだと思います。
T 割と書きますが、全部そのまま書くわけではないですね。全く体験してないことっていうのはなかなか書きづらいので、どの作品に関しても自分の実体験がゼロですっていうのはない。必ずちょっと実体験が入っていて、とはいえ、ある限られた場面でも実体験だけで書くっていうことは結構難しい。なんか説明が難しいんですが。
滝口悠生さん photo by 藤田和美
I 実体験だけだと幽霊とか出せないもんね。
T 出せないね。それに、すごい重たくなっちゃうんですよ。テキストが重たくなる。その重たさっていうのは、言葉の選び方のレベルなのか、単に書き手と文章の関係性のものなのか、ちょっと分からないんだけど。感覚として書いてるものがグッと動く感じが大事なんです。ちょっと動きがある、動きを感じるっていうのが大事で、それがあると読んでいても面白いし、書いていても手応えがある。そして、その動きっていうのはやっぱりフィクションが作る。フィクションが働くと、そういう動きみたいなものが出るんです。
-フィクションが動きをつくる。
T たとえば、自分が結構しっかり覚えている体験をここで使ってみようと思って書くとする。そんな時はあんまりうまくいかない。自分が見たものとか覚えていることが多過ぎて、フィクションの要素がうまく入ってこないというか、入る隙間がつくれないというか。知っていることを書き過ぎていて、書くことによって出てくるはずの、さっきの幽霊みたいなのが呼び寄せられて来ない。幽霊に限らず、現実的な描写とかでも同じなんですけど、書いていることによってそこにフィクショナルなものが求められ、呼び寄せられて、入り込む、刻まれてく、みたいのがある。そうすると動きが出るんだけど、実体験をそのまま書いているとそういうものが入ってこなくて、知っていること、覚えていることだけで書いてしまう。そうするとテキストとして動きのないものになる。量としてすごい書けた、と思っても、読み返してみるとつまらない。それで、結局で使えないからあとで書き直しになる。
-なるほど。
T これは人によっても違うんでしょうけどね。私小説なんかは全然別の書き方かもしれない。でも、僕の感覚として、体験をもとにした部分とか、単純に知っている土地とか町のことを書く時には、その加減っていうのは結構気をつける。知ってるからなんでもかんでも書くと、また別の知ってることがどんどん付いて来てしまう。どこまでやるのか加減が難しい。
I となると、悠生の作品の雰囲気は非現実の世界を挟まないと出て来ないの?
T うーん、非現実の世界が必要な訳ではない。
I そうなんだ。
幸せ一郎さん photo by 藤田和美
T 自然とそうなっちゃうだけで、あんまりそればっかになっちゃってもよくないから。例えば、幽霊じゃなくても、普通に駅前の景色とかを書いていてもそうなんだけど、知っている場所を書いてる時にそれを今誰かが見ているものとして書くのか、誰かが思い出している景色として書くのか、それとも、誰かというよりもっと誰のものでもない地図みたいな情報として書くのか、っていう、色んな選択肢があるわけじゃないですか。それをどう組み合わせるのか、どれを選ぶかってことによって文章の質感が全く変わってくる。そこで何を選ぶかなんだけど、なぜそれを選ぶかというところに、こう、何かしらの切実さが必要だと思うんです。
T 意図的に外れていくところもあるし、結末らしいものに向かおうと思っても、たぶん、途中で飽きて外れていっちゃう。「物語的には」とか「クライマックス」とかっていうものは、まあどうでもいいと思ってます。それは、さっきの旅行の話と同じで、目的地みたいなものは動き出すために必要だとしても、そこに行かなくても全然かまわない(笑)
-作品の終わりはどのように決めていますか?
T なんとなく満足しているので、そんなに悩まないでいつも終わりますね。「ああ、もう、これでいいな」って。物語的なクライマックスはまったく迎えてないんですけど、何かしらのカタルシスを迎えてる感じはある。さっきの、「博物館閉まってた!」みたいな。
T 「マーキームーン」ね(笑) でも、小説の終わり方としてそれはけっこう難しいと思う。小説ってさ、能動的に読まないといけないから「もう一回始まった」というよりも「もう一回読むのかよ」ってなるでしょ。それだとちょっとしらけるんじゃないかな。
I いいと思うけどな、俺は。
T それより、ちょっと感覚的なものだけど、小説って「終わったと思ったらもう一回始まる」みたいなものより「最後をもっと手前で切る」っていう方が難しいし、でも効果的だと思う。他の人の作品を読んでても、終わり方に凄く満足する作品、この終わり方はいいなー、って思えるものってほとんどないんですよ。終わり方っていうのは最後の一文とか、最後の方の文章っていう意味で、これは完全に好みの問題なんだけど「この最後の一文とか二文がなければもっといいのに」って思うことが読んでいて結構ある。
I ちょっと最後にカッコつけちゃったなって思っちゃう?
T そうそう。勝手に格好がついちゃうんだと思うんだけどね。それに抵抗したい。映画とかでも、観ながら「ここでバサッと終わったらすごくいいのにな」って思うことがあって、でも大抵は終わりらしい終わり方で終わる。何年か前にキアロスタミが撮った「ライク・サムワン・イン・ラブ」って作品の終わり方はバサッと終わって素晴らしかったです。ここで終わったらいいな、と思ったところでほんとに終わった。小説もあんなふうに終わらせたい。バサって終わらせるのは難しいと思うんですよ。すごい乱暴だし「えっ?」てなるし。でも、その面白さとか良さとかいうのもある。